妙法院
京阪本線七条駅から徒歩10分。東大路通に面し、石垣上に築地塀を廻らせ、表門、唐門を構える。幕末まで代々法親王が住持を務めた名刹で、天台三門跡の一つ(ほかは青蓮院と三千院)。広大な境内に国宝の庫裏、重要文化財の大書院や玄関、宸殿など多くの殿舎が立つ。建物内部は通常非公開で、2027(令和9)年まで庫裏改修工事のため境内にも入れない場合がある。
平安時代末期、後白河法皇の護持僧であった比叡山本覚院の昌雲が、法皇の院御所・法住寺殿の近くに住坊を設けたのが始まりとされる。中世に入ると多くの争乱に巻き込まれて衰退したが、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営した際、現在地に移転。大仏経堂に定められ、1595(文禄4)年に千僧供養が行われた。豊臣家滅亡後も徳川家に厚遇され、付近一帯の新日吉(いまひえ)神社、方広寺、三十三間堂を管理することとなり、豊臣家にまつわる貴重な遺物も伝えらえた。現在も妙法院は三十三間堂の本坊となっている。
平安時代末期、後白河法皇の護持僧であった比叡山本覚院の昌雲が、法皇の院御所・法住寺殿の近くに住坊を設けたのが始まりとされる。中世に入ると多くの争乱に巻き込まれて衰退したが、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営した際、現在地に移転。大仏経堂に定められ、1595(文禄4)年に千僧供養が行われた。豊臣家滅亡後も徳川家に厚遇され、付近一帯の新日吉(いまひえ)神社、方広寺、三十三間堂を管理することとなり、豊臣家にまつわる貴重な遺物も伝えらえた。現在も妙法院は三十三間堂の本坊となっている。

みどころ
境内中央に立つ庫裏*は豪壮な桃山建築。豊臣秀吉が千僧供養を行った際の台所として建てられたと伝える。大書院や玄関は後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を賜ったと伝え、内部には狩野派による金碧障壁画58面(重要文化財)が描かれている。宸殿には歴代天皇・皇后・中宮の位牌を安置。幕末維新史に残る「七卿落ち*」の舞台にもなっており、宸殿の近くに記念碑が立っている。宸殿南東に立つ本堂には本尊の木造普賢菩薩騎象像(重要文化財)を安置。宸殿の東にある龍華蔵(宝物庫)には、豊臣秀吉の遺愛の秋草蒔絵文台(重要文化財)をはじめ仏像や古文書などを収蔵する。妙法院は寺宝の多いことでも知られ、なかでも豊臣秀吉に宛てたポルトガル国印度副王信書*(国宝)は有名。

補足情報
*庫裏:棟高60尺近く、入母屋造の天井に巨大な梁や貫が縦横に架かる豪壮な造りで、桃山建築の貴重な遺構。
*七卿落ち:1863(文久3)年8月18日の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿、三条実美ら7人が京都から追放された事件。7人は妙法院に集結した後、尊攘派の拠点である長州藩へ落ち延びた。妙法院境内に立つ石碑は1912(大正元)年の建立。
*ポルトガル国印度副王信書:1588年、ポルトガル領ゴアのインド副王が豊臣秀吉に宛てた外交文書。羊皮紙に書かれている。京都国立博物館に寄託。
*七卿落ち:1863(文久3)年8月18日の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿、三条実美ら7人が京都から追放された事件。7人は妙法院に集結した後、尊攘派の拠点である長州藩へ落ち延びた。妙法院境内に立つ石碑は1912(大正元)年の建立。
*ポルトガル国印度副王信書:1588年、ポルトガル領ゴアのインド副王が豊臣秀吉に宛てた外交文書。羊皮紙に書かれている。京都国立博物館に寄託。
関連リンク | 京都市観光協会 京都観光Navi(WEBサイト) |
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参考文献 |
京都市観光協会 京都観光Navi(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 中」山川出版社 |
2025年05月現在
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