智恩寺(切戸の文殊)ちおんじ(きれとのもんじゅ)

京都丹後鉄道天橋立駅の北東、徒歩約5分、天橋立の南端すぐ近くにあり、日本三文殊*の一つ「切戸(きれと)の文殊」で知られる臨済宗妙心寺派の禅寺。雪舟の「天橋立図」の中にも堂塔が描き込まれている。寺伝では904(延喜4)年に醍醐天皇から「天橋山智恩寺」の寺号を賜り、この年を創建としている。それ以前より文殊菩薩の霊地としての伝承もあり、808(大同3)年に平城天皇の行幸もあったとされる。江戸時代まで天橋立も寺領であった。
 松の木立ちの中に「黄金閣」と呼ばれる丹後最大の三門がそびえ、文殊菩薩を祀る本堂の文殊堂、国重要文化財の多宝塔などの堂宇が並んでいる。境内には鉄湯船の手水鉢や和泉式部の歌塚、龍宮門形式の元鐘楼の暁雲閣、室町時代の石仏などがある。
 毎年7月24日の出船祭*は、寺草創に関わる九世戸(くぜと)縁起*にちなむ。
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みどころ

阿蘇海に小さく突き出た地にあるため、三門*をくぐると右側に海が迫る。境内正面には宝形造の文殊堂*、手前左手には多宝塔*が立つ。上層の大屋根の広がりが伸びやかで、2層目と1層目をつなぐ漆喰の丸み(亀腹)が小さく古い様式を感じさせる。文殊堂後方に方丈と庫裏、右に鐘楼、暁雲閣が立っている。文殊堂の前にある手水鉢は、鎌倉後期に造られた鉄湯舟。1290(正応3年)河内の鋳物師が造ったと銘があり、国重要文化財。境内の東側、観光船乗り場近くの智恵の輪灯籠は江戸時代の絵図にも見られ、文珠水道を通る船のために丸い輪の中に明かりを灯したという。門前に軒を並べる4軒の茶店は「四軒(しけん)茶屋」と呼ばれ、江戸時代初期からの名物「智恵の餅」*を売っている。
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補足情報

*日本三文殊:あとの2つは安倍文殊(奈良安倍文殊院)、亀岡文殊(山形大聖寺)といわれる(諸説あり)。智恩寺は「九世戸縁起」や、これを典拠にした謡曲「九世戸」などから「九世戸の文殊」とも呼ばれる。
*出船祭:文殊堂で行道供養のあと、海上舞台での文殊菩薩と2頭の龍舞などがある。(現在は龍舞は行われず、文殊会の法要のみ)
*九世戸縁起:天地の始まりの頃、この地では龍神たちが暴れていた。これを鎮めるために神々から招かれた中国五台山の文殊菩薩が長い時間をかけて説法したところ、龍神たちは改心し、一夜にして龍神は土を盛り、天人たちが松を植え、天橋立を造ったと縁起は伝える。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)など天神七代と天照大神、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の地神二代の合わせて九代に渡る御代で出来た土地なので、この地が「九世戸」と称されるようになったという。
*三門:「切戸文殊堂」の大提灯が下がる。初層の柱間に扉がなく、開放感のある三間三戸の楼門。江戸中期の再建。
*文殊堂:東西10間、南北9間の宝形造、銅板葺。江戸時代前期の宮津藩主京極高国が改修したというが、内陣の四本柱は鎌倉時代のものの再使用とみられる。須弥壇上の厨子に安置する国重要文化財の文殊菩薩騎獅像と脇侍の優闐王(うてんおう)像、善財童子像は、秘仏。いずれも寄木造の彩色像で鎌倉時代後期の精巧な作である。7月24日の出船祭と、正月(1月1~3日)、十日恵比寿(1月10日)に御開帳される。堂には多くの絵馬が掲げられている。
*多宝塔:高さ約18m。方3間、2層、屋根は杮葺。上層の軒組みは複雑だが下層は比較的簡素である。1501(明応10)年に建てられ、室町時代の禅宗様建築の特徴を備えている。塔内には大日如来坐像を安置する。
*智恵の餅:軟らかい餅にこし餡を載せたもの。食べると文殊の智恵を授かるという。嘉暦年間(1326~1329年)に堂前で老婆が売り始めたと伝え、「四軒茶屋」と呼ばれる吉野茶屋、彦兵衛茶屋、勘七茶屋、ちとせ茶屋の4軒は、江戸の創業以来続いている。