清凉寺せいりょうじ

JR山陰本線(嵯峨野線)嵯峨嵐山駅、嵐電嵐山駅のどちらからも徒歩15分。嵯峨釈迦堂の別名で親しまれている清凉寺は嵯峨野でも有数の古刹である。豪壮な仁王門をくぐると、広い境内に本堂*・阿弥陀堂などの大堂が並び立つ。この地にはもともと『源氏物語』の光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる)*の山荘・栖霞観(せいかかん)があり、死後、その遺志によって阿弥陀堂が建立され、棲霞寺(せいかじ)と名付けられた。これが清凉寺の前身。986(寛和2)年、奈良・東大寺の僧である奝然(ちょうねん)が宋から帰国し、中国の五台山にならって愛宕山に五台山清凉寺を建立しようとしたが果たせず、死後弟子の盛算が遺志を継ぎ、棲霞寺内に堂を建立、奝然が宋から持ち帰った釈迦如来立像*を安置した。これが清凉寺の始まりである。在世中の釈迦の姿を伝えるこの釈迦像は特別な信仰を集め、次第に清凉寺は興隆した。しかし棲霞寺の方は衰え、やがて清凉寺に吸収され、元棲霞寺の本堂であった阿弥陀堂にその名残を伝えるだけとなった。もともと華厳宗の寺であったが、室町時代には融通念仏の道場になった。
 現在の境内には源融の墓と伝える宝篋印塔や、奝然の墓、嵯峨天皇・同皇后の墓とされる石塔、豊臣秀頼の首塚もあり、また境外墓地に遊女夕霧*の墓がある。3月15日にはお松明(たいまつ)式*、4月第1日曜と第2土・日曜などには嵯峨大念仏狂言*が、古式豊かに行われる。
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みどころ

清凉寺でぜひ拝観したいのが、本尊の木造釈迦如来立像*(国宝)。奝然が宋から持ち帰った像で、「三国伝来の釈迦」「生身の釈迦」と呼ばれる。胎内には、瑞像造立記などの文書や御経とともに、五色の絹で作られた五臓六腑などが納められていた。本堂の厨子内に安置されており、毎年4・5・10・11月と毎月8日に開帳される。4・5・10・11月に公開される霊宝館では、棲霞寺の本尊であった阿弥陀三尊像(国宝)にまず注目。貞観風の量感に満ちており、中尊の顔は源融に似せて造られたとも伝わる。このほか館内には文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、釈迦十大弟子像(いずれも重要文化財)なども安置する。本堂後方に立つ弁天堂の周囲は池泉回遊式庭園になっており、秋は紅葉が美しい。また、方丈裏には小堀遠州が作庭したと伝わる枯山水庭園がある。
 寺の門前、仁王門の東には有名な「嵯峨豆腐」の老舗があり、その場で豆腐を購入できる。
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補足情報

*本堂(釈迦堂):現在の本堂は、徳川5代将軍綱吉と生母・桂昌院の発願で、1701(元禄14)年に再建されたもの。
*源融:822~895年。嵯峨天皇の皇子。源氏の姓を受けて臣籍に下り、872(貞観14)年左大臣となる。『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれる。
*遊女夕霧:京の島原および大坂の新町にいた、遊女の最高ランクの太夫。小説や演劇に取り上げられる。
*お松明式:3月15日夜、本堂前に3基の大松明を立てて火を灯し、その火勢で米の豊凶を占う壮観な行事。
*嵯峨大念仏狂言:国の重要無形民俗文化財。境内の狂言堂において春と秋に定期公演が行われる。鎌倉時代に円覚により庶民教化のために始められたと言い、謡曲「百万」はここを舞台とする。
*釈迦如来立像:国宝。在世中の釈迦の姿を写して古代インドで造られたという像を、奝然が宋で拝して感激し、現地の仏師に模刻させて日本に持ち帰ったもの。インドから中国を経て、日本に伝わったことから「三国伝来の像」といわれる。像高160cm。特異な容姿をもち、衣は両肩から波紋を広げたように落ち、裾で規則正しい段をなす。また目に黒い珠、耳に水晶をはめ込み、頭髪は縄状になっている。この像は日本で多数模刻されて「清凉寺式釈迦如来像」という形式をなし、奈良の西大寺をはじめ全国に100体近くあるといわれる。
関連リンク 清凉寺(WEBサイト)
参考文献 清凉寺(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社

2025年05月現在

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