伏見の街並み
京阪本線中書島駅と伏見桃山駅の間にある伏見はかつて伏水と書き、平安時代には貴族の山荘が営まれた。豊臣秀吉が太閤堤をはじめとする土地改造、水路整備の上、壮大な伏見城*を造営すると、城下町として発展。廃城後も酒造りと淀川の水運に恵まれて、江戸時代には三十石船*が往来する宿場と商業の町として栄えた。今でも掘割沿いには切妻屋根、白壁板張りの土蔵造の酒蔵が立ち並び、独特の雰囲気が漂っている。現在でも23軒の蔵元があり、月桂冠大倉記念館、黄桜記念館などの資料館*で江戸~明治時代の酒蔵資料を展示している。
京阪本線伏見桃山駅の西口前から西へ延びる大手筋通りは昔から伏見の中心街で、町名に羽柴長吉中町、伊賀などの大名屋敷の名が残るほか、瀬戸物町、風呂屋町など当時の町人町の名も使われている。掘割の一隅には坂本龍馬ゆかりの船宿寺田屋*があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いの主戦場であった痕跡も見られる。
京阪本線伏見桃山駅の西口前から西へ延びる大手筋通りは昔から伏見の中心街で、町名に羽柴長吉中町、伊賀などの大名屋敷の名が残るほか、瀬戸物町、風呂屋町など当時の町人町の名も使われている。掘割の一隅には坂本龍馬ゆかりの船宿寺田屋*があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いの主戦場であった痕跡も見られる。

みどころ
まずは酒蔵。町のあちこちに酒蔵があり、なかでも柳が連なる掘割の流れに面して立ち並ぶ月桂冠大倉記念館の白漆喰と板壁の酒蔵は絵になる。黄桜など蔵元直営の店や、酒蔵を改装した店も点在し、月桂冠旧本店を活用した「伏見夢百衆」では伏見の17蔵元のアンテナショップとして、日本酒の販売や、きき酒を楽しめる。
伏見に刻まれた歴史の痕跡は、大手筋の伏見銀座跡、伏見御堂前の会津藩駐地跡、近鉄桃山御陵前駅やや南の伏見奉行所跡など、石碑に偲ばれる。淀川水運の船宿だった寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失し、現建物は西側に再建されたもの。龍馬が逃げ込んだという薩摩島津伏見屋敷跡も、寺田屋の北800mほどに石碑が建てられている。桃山御陵駅の東側の御香宮神社には「明治維新 伏見の戦跡」の碑がある。この神社は名水で名高く、伏見の地下にはおいしい水があることが知られる。
伏見の町を流れる宇治川派流から濠川を行く観光船の十石舟*に乗れば、絶景の月桂冠大倉記念館裏や寺田屋の横を通り、濠川と宇治川の合流点の伏見港まで行ける。船の折り返し地点には三栖閘門(みすみこうもん)資料館*があり、観光船の休憩時間に見学でき、伏見港の歴史と江戸時代の伏見の繁栄ぶりが理解できる。
伏見に刻まれた歴史の痕跡は、大手筋の伏見銀座跡、伏見御堂前の会津藩駐地跡、近鉄桃山御陵前駅やや南の伏見奉行所跡など、石碑に偲ばれる。淀川水運の船宿だった寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失し、現建物は西側に再建されたもの。龍馬が逃げ込んだという薩摩島津伏見屋敷跡も、寺田屋の北800mほどに石碑が建てられている。桃山御陵駅の東側の御香宮神社には「明治維新 伏見の戦跡」の碑がある。この神社は名水で名高く、伏見の地下にはおいしい水があることが知られる。
伏見の町を流れる宇治川派流から濠川を行く観光船の十石舟*に乗れば、絶景の月桂冠大倉記念館裏や寺田屋の横を通り、濠川と宇治川の合流点の伏見港まで行ける。船の折り返し地点には三栖閘門(みすみこうもん)資料館*があり、観光船の休憩時間に見学でき、伏見港の歴史と江戸時代の伏見の繁栄ぶりが理解できる。

補足情報
*伏見城:秀吉が最初に建て、慶長の大地震で倒壊した伏見城は、市街東側の宇治川寄りにあった。やや北に移して築かれた2度目の城は関ヶ原の前哨戦で落城。その後徳川家康が3代目の伏見城を造ったが江戸初期には廃城となり、伏見奉行所が置かれていた。御香宮神社の表門は伏見城大手門の遺構と伝わる。その東方の丘陵地にあったと推定される本丸のあたりは、明治天皇陵となっている。
*三十石船:長さ17m、幅2.5m、米俵5斗入りを60俵、計30石ほどを運べる大きさということでこの名が付いた。大坂八軒家と伏見を結び、上りは朝に八軒家を出て曳き船で伏見に夕方到着、下りは夜に伏見を出て朝に八軒家へ。落語「三十石」はこの船の話。京都へは伏見で高瀬舟に積み替えて高瀬川を遡った。
*資料館:月桂冠大倉記念館では酒の樽詰工場を改造して日本酒の歴史を紹介するとともに、樽酒の鏡開きや日本酒のきき酒も楽しめる。河童のコマーシャルで有名な黄桜記念館は酒造りに関する資料や歴代広告ポスターのほか、河童関連の展示も。
*寺田屋:1862(文久2)年に起こった薩摩藩の尊王過激派粛清の寺田屋騒動と、1866(慶応2)年に起こった伏見奉行所による坂本龍馬襲撃事件の現場である。龍馬はこの宿を定宿としており、住み込みの仲居であった愛人お龍の機転で難を逃れたことも有名。負傷した龍馬は濠川に架かる大手橋そばの材木納屋まで逃げ、薩摩藩の舟で伏見屋敷に保護された。現在の寺田屋東側の旧地には「薩藩九烈士遺蹟表」の碑や龍馬の像が立っている。
*十石舟:乗り場は月桂冠大倉記念館そば。三十石船もあるが、イベント、団体用。
*三栖閘門資料館:1929(昭和4)年に建設された三栖閘門は、伏見の濠川と宇治川の水位差を解消して船の通運を可能にする装置。1962(昭和37)年に淀川舟運は廃止され、さらに宇治川改修や天ケ瀬ダムの完成でその役割を終えた。旧操作室だった資料館では閘門の仕組みや淀川船運の歴史を模型やパネルで紹介。
*三十石船:長さ17m、幅2.5m、米俵5斗入りを60俵、計30石ほどを運べる大きさということでこの名が付いた。大坂八軒家と伏見を結び、上りは朝に八軒家を出て曳き船で伏見に夕方到着、下りは夜に伏見を出て朝に八軒家へ。落語「三十石」はこの船の話。京都へは伏見で高瀬舟に積み替えて高瀬川を遡った。
*資料館:月桂冠大倉記念館では酒の樽詰工場を改造して日本酒の歴史を紹介するとともに、樽酒の鏡開きや日本酒のきき酒も楽しめる。河童のコマーシャルで有名な黄桜記念館は酒造りに関する資料や歴代広告ポスターのほか、河童関連の展示も。
*寺田屋:1862(文久2)年に起こった薩摩藩の尊王過激派粛清の寺田屋騒動と、1866(慶応2)年に起こった伏見奉行所による坂本龍馬襲撃事件の現場である。龍馬はこの宿を定宿としており、住み込みの仲居であった愛人お龍の機転で難を逃れたことも有名。負傷した龍馬は濠川に架かる大手橋そばの材木納屋まで逃げ、薩摩藩の舟で伏見屋敷に保護された。現在の寺田屋東側の旧地には「薩藩九烈士遺蹟表」の碑や龍馬の像が立っている。
*十石舟:乗り場は月桂冠大倉記念館そば。三十石船もあるが、イベント、団体用。
*三栖閘門資料館:1929(昭和4)年に建設された三栖閘門は、伏見の濠川と宇治川の水位差を解消して船の通運を可能にする装置。1962(昭和37)年に淀川舟運は廃止され、さらに宇治川改修や天ケ瀬ダムの完成でその役割を終えた。旧操作室だった資料館では閘門の仕組みや淀川船運の歴史を模型やパネルで紹介。
関連リンク | NPO法人伏見観光協会(WEBサイト) |
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参考文献 |
NPO法人伏見観光協会(WEBサイト) 酒蔵・蔵元紹介 伏見酒造組合(WEBサイト) 三栖閘門資料館 淀川河川事務所(WEBサイト) |
2025年05月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。