祇王寺
JR嵯峨嵐山駅または嵐電嵐山駅からともに徒歩25分、市バスだと嵯峨小学校から徒歩15分。二尊院から化野念仏寺へ向かう道の途中を左折し、樹木がトンネルをつくる小径の奥にある。
「平家物語」によれば、平清盛の寵愛を受けた白拍子祇王*は、あとから現れた白拍子の仏御前*に寵愛を奪われた。清盛に追い出された祇王は母・妹とともに都を出て出家し、この地にあった往生院に身を寄せ、仏道に入った。やがて仏御前も後生を願ってここに来て、ともに念仏三昧の生活を送ったという。寺はのち衰退し、江戸時代に再興されたものの明治維新ごろには廃寺になり、その後は大覚寺の管理に帰した。その復興に尽くしたのが京都府知事北垣国道*で、1895(明治28)年に別荘の一部を移して再興したのが祇王寺である。境内には茅葺きの草庵が立ち、祇王、祇女、母・刀自の墓と、清盛公の供養塔がある。緑の苔に映えるもみじが見事。
「平家物語」によれば、平清盛の寵愛を受けた白拍子祇王*は、あとから現れた白拍子の仏御前*に寵愛を奪われた。清盛に追い出された祇王は母・妹とともに都を出て出家し、この地にあった往生院に身を寄せ、仏道に入った。やがて仏御前も後生を願ってここに来て、ともに念仏三昧の生活を送ったという。寺はのち衰退し、江戸時代に再興されたものの明治維新ごろには廃寺になり、その後は大覚寺の管理に帰した。その復興に尽くしたのが京都府知事北垣国道*で、1895(明治28)年に別荘の一部を移して再興したのが祇王寺である。境内には茅葺きの草庵が立ち、祇王、祇女、母・刀自の墓と、清盛公の供養塔がある。緑の苔に映えるもみじが見事。

みどころ
庵には祇王、祇女、母の刀自、仏御前、それに清盛の木像と大日如来像を安置。控えの間の大きな円窓は吉野窓といい、光の具合で影が虹のように見えるため、一名「虹の窓」と呼ばれる。境内の宝篋印塔が祇王、祇女、母・刀自の墓、五輪塔は清盛の供養塔といわれ、ともに鎌倉時代のもの。祇王寺の隣には滝口寺*がある。

補足情報
*祇王:近江国に生まれ、のちに上洛、当時流行の白拍子の踊りに優れたとされる。清盛に故郷の水不足を訴えてできたのが、野洲市にいまも流れる祇王井川と伝え、祇王の死を悼み、その徳を讃えてつくられたという妓王寺が、出生したという野洲市の旧祇王村の地にある。
*仏御前:加賀国の生まれとされる。清盛の寵愛を受けるが、みずからの栄華にむなしさを知り出家、祇王寺へ。やがてふるさとへ帰り、短い生涯を終えたとする説もある。
*北垣国道:1830~1916年。1881(明治14)年から1892(明治25)年まで京都府知事を務め、琵琶湖疏水事業に着手し第一疏水を完成させた。のち、北海道庁長官、貴族院議員、枢密顧問官。
*滝口寺:往生院の一院の跡を昭和の初めに「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋にちなんで「滝口寺」として復興したもの。本堂に2人の像を祀っている。ここには勾当内侍(こうとうのないし)が夫、新田義貞の菩提を嵯峨往生院で弔ったという「太平記」にちなむ義貞首塚と勾当内侍の供養塔もある。
*仏御前:加賀国の生まれとされる。清盛の寵愛を受けるが、みずからの栄華にむなしさを知り出家、祇王寺へ。やがてふるさとへ帰り、短い生涯を終えたとする説もある。
*北垣国道:1830~1916年。1881(明治14)年から1892(明治25)年まで京都府知事を務め、琵琶湖疏水事業に着手し第一疏水を完成させた。のち、北海道庁長官、貴族院議員、枢密顧問官。
*滝口寺:往生院の一院の跡を昭和の初めに「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋にちなんで「滝口寺」として復興したもの。本堂に2人の像を祀っている。ここには勾当内侍(こうとうのないし)が夫、新田義貞の菩提を嵯峨往生院で弔ったという「太平記」にちなむ義貞首塚と勾当内侍の供養塔もある。
関連リンク | 祇王寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
祇王寺(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 |
2025年05月現在
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