常寂光寺じょうじゃっこうじ

JR嵯峨嵐山駅から徒歩20分、「百人一首」で知られる小倉山の中腹にある日蓮宗の寺。1596(文禄5)年、日蓮宗大本山本圀寺16世の日禛(にっしん)上人が開いた。その前年、豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿の千僧供養への出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は不受不施派*の伝統を守って出仕しなかった。そして本圀寺を出て、隠棲の地として当寺を開いたのである。その際、豪商の角倉一族*が土地を寄進し、小早川秀秋らの諸大名が堂宇の建立に協力したという。
 本圀寺客殿の南門を移築した茅葺きの仁王門*をくぐり、楓に覆われた急な石段を上る。石段上に立つ本堂は、伏見城の客殿を移したもの。さらに斜面を上ると、均整のとれた檜皮葺きの多宝塔*がある。このあたりからは嵯峨野を一望できる。さらに上の境内最奥にある歌仙祠には藤原定家の木像などを安置する。藤原定家が「百人一首」を編んだ山荘「時雨亭」は現在の常寂光寺の境内にあったといわれ、歌仙祠の近くに時雨亭跡の石碑が建てられている。
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みどころ

小倉山は平安時代以来の紅葉名所。現在の寺の境内も全山が紅葉に包まれる。11月中旬ころになると、境内のモミジは深紅や黄色に染まり、1年で最も華やかな季節となる。その雰囲気は、清浄で清らかな常寂光土に遊ぶような趣があり、それが寺名の由来ともなっている。春の青モミジも美しく、梅雨ごろには苔の緑も鮮やかとなり、青モミジとともに、境内は緑一色の世界となる。
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補足情報

*不受不施派:日蓮宗の一派。法華経を信じない者の施しを受けず、また施さないことを旨とする。そのため豊臣秀吉、江戸幕府から弾圧を受けたが、明治になって政府に公認された。
*角倉一族:角倉了以(1554~1614)は、戦国時代~江戸時代初期の京都の豪商。豊臣秀吉の朱印状を得てベトナムとの貿易を行い、私財を投じて大堰川(保津川)と高瀬川を開削した。了以の子の素庵(1571~1632)は、江戸時代初期の土木事業家、儒学者、書家、貿易商。
*仁王門:貞和年間(1345~1349)に本圀寺客殿の南門として建立され、1616(元和2)年に当寺に移築された。仁王像は若狭小浜の長源寺より移されたもので、運慶の作と伝えられる。
*多宝塔:重要文化財。1620(元和6)年の建立。高さ約12m、重層、宝形造、檜皮葺きの秀麗な姿で知られる。京都の町衆が寄進したもので、のちに霊元天皇より宸筆「並尊閣」の3文字の下賜を受け、以来、この勅額を掲げる。
関連リンク 常寂光寺(WEBサイト)
参考文献 常寂光寺(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社
資料「常寂光寺」

2025年05月現在

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