隨心院
地下鉄東西線小野駅から徒歩5分。醍醐寺の北にあり、奈良街道の東側に面している。このあたりは小野と呼ばれ、昔は小野氏の領地であったことから、隨心院は小野小町*の住居跡に立つともいわれている。
雨乞のたびに雨を降らしたので”雨僧正”とも呼ばれた真言宗小野流の祖・仁海(にんがい)が、991(正暦2)年に開いた牛皮山曼荼羅寺に始まる。第5世増俊の時、その子房として隨心院を建立。1229(寛喜元)年に後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称される。応仁・文明の乱で衰微したが、1599(慶長4)年に本堂が再建された。以後、九条・二条両摂家より門跡が入山し、復興が進んだ。真言宗各派は、明治以降対立と分派をくりかえす。隨心院は、1931(昭和6)年、善通寺派に改称し、四国の善通寺が総本山、隨心院は善通寺派の大本山となった。境内は史跡に指定され、本堂*・書院*・庫裏などの建物のまわりには築地塀が巡らされ、おごそかな雰囲気に包まれている。
雨乞のたびに雨を降らしたので”雨僧正”とも呼ばれた真言宗小野流の祖・仁海(にんがい)が、991(正暦2)年に開いた牛皮山曼荼羅寺に始まる。第5世増俊の時、その子房として隨心院を建立。1229(寛喜元)年に後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称される。応仁・文明の乱で衰微したが、1599(慶長4)年に本堂が再建された。以後、九条・二条両摂家より門跡が入山し、復興が進んだ。真言宗各派は、明治以降対立と分派をくりかえす。隨心院は、1931(昭和6)年、善通寺派に改称し、四国の善通寺が総本山、隨心院は善通寺派の大本山となった。境内は史跡に指定され、本堂*・書院*・庫裏などの建物のまわりには築地塀が巡らされ、おごそかな雰囲気に包まれている。

みどころ
本堂には快慶作の金剛薩埵坐像(重要文化財)、藤原時代の阿弥陀如来坐像(重要文化財)などのほか、小野小町が寄せられた恋文を下張りにして作ったという小町文張地蔵像や、晩年の小町の姿を写したという卒塔婆小町坐像も安置する。境内には小町が化粧に使ったという「小町化粧井戸」や、小町への1,000通もの恋文を埋めたと伝わる「小町文塚」なども残る。また、書院「能の間」の襖絵「極彩色梅匂小町絵図」は、京都のアートユニット「だるま商店」が小町の生涯をCGで描いた傑作。2009(平成21)年に奉納されて以来、新感覚の”お寺アート”として注目されている。
総門から薬医門の間には、「はねずの梅」と呼ばれる薄紅色の梅を主体とした「小野梅園」が広がる。遅咲きで3月半ば頃が見ごろになり、毎年3月最終日曜日には小町伝説を主題とする「はねず踊り」が行われる。梅の造花をさした菅笠をかぶり、薄紅色の小袖を着た少女たちが小町と深草少将に扮し、境内の特別舞台の上でわらべ歌に合わせて踊る。
総門から薬医門の間には、「はねずの梅」と呼ばれる薄紅色の梅を主体とした「小野梅園」が広がる。遅咲きで3月半ば頃が見ごろになり、毎年3月最終日曜日には小町伝説を主題とする「はねず踊り」が行われる。梅の造花をさした菅笠をかぶり、薄紅色の小袖を着た少女たちが小町と深草少将に扮し、境内の特別舞台の上でわらべ歌に合わせて踊る。

補足情報
*小野小町:平安時代前期の歌人。六歌仙、三十六歌仙の一人。歌は柔軟艶麗、絶世の美人として深草少将の百夜通など数々の伝説がある。
*本堂:寝殿造。1599(慶長4)年の再建で、秘仏本尊・如意輪観音菩薩坐像をはじめ阿弥陀如来坐像・小町文張地蔵像などを安置する。
*書院:九条家出身の天真院尼の寄進と伝え、玄関・表書院・能の間・奥書院からなる。表書院と奥書院には、狩野派の筆による襖絵が描かれている。
*本堂:寝殿造。1599(慶長4)年の再建で、秘仏本尊・如意輪観音菩薩坐像をはじめ阿弥陀如来坐像・小町文張地蔵像などを安置する。
*書院:九条家出身の天真院尼の寄進と伝え、玄関・表書院・能の間・奥書院からなる。表書院と奥書院には、狩野派の筆による襖絵が描かれている。
関連リンク | 隨心院(WEBサイト) |
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参考文献 |
隨心院(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 中」山川出版社 |
2025年05月現在
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