くろ谷 金戒光明寺くろだに こんかいこうみょうじ

市バス岡崎道から徒歩10分、または東天王町から徒歩15分、黒谷町の小高い岡の上にあり、「くろ谷さん」と親しまれる浄土宗の大本山。山内には、山門*・阿弥陀堂・御影堂(大殿)*・大方丈・三重塔(文殊塔)*などのほか、18カ寺の塔頭寺院が立ち並ぶ。1175(承安5)年、法然上人が比叡山の黒谷を下り、この地に草庵を結び、浄土宗最初の念仏道場を開いたのが寺の起こりと伝える。第5世恵顗(えぎ)の代に伽藍が整えられて光明寺と称し、第8世運空の代には後光厳天皇から「金戒」の字を賜り、金戒光明寺と改称した。応仁・文明の乱で火災に遭い、その後も数度の火災に再建を繰り返し、現在に至る。
 境内東南の高台に広がる墓所に立つ三重塔(文殊塔)は国の重要文化財。徳川秀忠の菩提を弔うため、1633(寛永10)年に建立されたもの。高さ14mの均整の取れた美しい塔である。三重塔の下にある御廟には法然上人の遺骨を祀る。法然上人の御真影を安置する御影堂(大殿)は1944(昭和19)年の再建。三重塔の本尊であった文殊菩薩と脇侍の尊像もこちらに祀られている。大方丈の北側には、法然上人に関連した「紫雲の庭」がある。塔頭の蓮池院(熊谷堂)*は、法然上人のもとで出家、弟子となった熊谷直実の住坊跡。
 金戒光明寺は京都御所や、京都につながる街道の代表的な出入口の一つ・粟田口に近く、広い境内ももっていたため、幕末の1862(文久2)年には、京都守護職の本陣となった。守護職に任命された会津藩主・松平容保(かたもり)以下、約1,000人の藩士が止宿し、新撰組*も出入りした。その関係から、戦死した会津藩士352名が境内の墓所に眠る。
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みどころ

大方丈の北側にある「紫雲の庭」は法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもの。白川砂と杉苔を敷き詰めた中に、法然上人や上人を取り巻く人々を大小の石で表し、法然上人の「幼少時代 美作国」、「修行時代 比叡山延暦寺」、「浄土宗開宗 金戒光明寺の興隆」の3つの部分に分けて構成されている。※大方丈と「紫雲の庭」は通常非公開。毎年秋に特別拝観(予定)あり。
 会津藩、新撰組と、幕末にゆらぐ日本の歴史を再度学び直すためにも、当寺を訪れてほしい。さらに平家物語に登場する熊谷直実がなぜ当寺と関係があるのか、生地の埼玉県熊谷市の熊谷寺とどういう関係にあるのかを考える機会も与えてくれる。
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補足情報

*山門:境内の南に位置する。1860(万延元)年の再建。5間3戸、入母屋造、本瓦葺き。楼上に後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額がある。
*御影堂(大殿):山門の北。正面7間、側面7間、単層、入母屋造、本瓦葺き、正面に向拝を設けている。内陣に、法然上人の御真影「鏡の御影」が安置されている。
*三重塔(文殊塔):御影堂の東南、墓所内の高台にある。本尊の文殊菩薩と脇侍像は運慶作といわれ、2008(平成20)年からは御影堂に安置されている。
*蓮池院(熊谷堂):山門の東にある熊谷直実の住坊跡に建つ。金戒光明寺の塔頭。
*新撰組:将軍上洛の警備のために結成された浪士隊の大半は江戸に引き返したが、芹沢鴨らは京都残留を希望し、京都守護職の預かりとなる。彼らは後に尊王攘夷派の長州藩と公卿を京都から追放した働きが認められ、京都守護職から「新撰組」の名と市中取締りの命を受けた。
関連リンク くろ谷 金戒光明寺(WEBサイト)
参考文献 くろ谷 金戒光明寺(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 中」山川出版社
資料「くろ谷 金戒光明寺」

2025年05月現在

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