引接寺 千本ゑんま堂大念佛狂言いんじょうじ せんぼんえんまどうだいねんぶつきょうげん

市バス千本鞍馬口または乾隆校前から徒歩2分のところにある引接寺(いんじょうじ)は、閻魔法王を祀ることから「千本ゑんま堂」と親しまれる。引接寺は、平安初期、神通力をもった小野篁(おののたかむら)*が、葬送地・蓮台野(れんだいの)の入口に自ら閻魔王の姿を刻み安置したのが始まり。その後、1017(寛仁元)年、藤原道長の後援を得た定覚上人が、ここを仏道の道場として開山した。平安京のメインストリートである朱雀大路(現・千本通)の北部に位置するこの辺りは、あの世へ通ずる処として亡き骸を送った故に、京の都ではお精霊迎えの霊場として古来より有名であった。本尊の閻魔法王像は毎月16日の縁日に開扉。「ゑんま様の日」として住職の法話と法要が行われる(事前予約不要)。千本ゑんま堂大念佛狂言は、毎年5月1~4日にこの寺の境内で行われる。
 京都市で現在演じられる4つの大念仏狂言*の一つであるゑんま堂狂言は、平安中期の1017( 寛仁元)年に比叡山の高僧・恵心僧都 源信の弟子・定覚上人が大念仏法会を始めたことが起こりと伝えられる。1574(天正2)年、織田信長が上杉謙信に贈られた狩野永徳筆の洛中洛外図屏風(上杉本。国宝)の中にも、境内でこの狂言を演じる様子が描かれていることから、この頃にも有名な行事であったことがわかる。
 明治から昭和初期には、公演は2週間以上行われ、数百人収容の桟敷席を仮設するほどの盛況で、境内には市が立ち、多くの人で賑わった。1974(昭和49)年には舞台として使用してきた狂言堂(江戸時代創建)が不審火により全焼してしまった。しかし、狂言面は幸運にも庫裏内で保管されていて、全く被害を受けなかったことから復興の気運が高まり、1975(昭和50)年には復活公演を開催。以来、今日まで継承を続けている。
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みどころ

本堂に祀られる本尊の閻魔法王像は、高さ2.4mの迫力ある像。1488(長享2)年、仏師・定勢(じょうせい)によって造られたと伝わる。本堂の北にある観音堂には小野篁像、地蔵菩薩像などが祀られている。境内奥にある高さ約6mの多重石塔は、紫式部供養塔。1386(至徳3)年の銘があり、重要文化財に指定されている。
 千本ゑんま堂大念佛狂言は、5月1日~4日の期間中、1日~2日は夜公演のみ、3日~4日は昼夜2回の公演がある。公演は各回約3時間、笑いあり驚きありでたっぷり楽しめ、無料である。ほかに節分奉納狂言会が 2月3日夜に行われる。
 念仏狂言のほとんどは無言劇で、囃子に合わせて演じられるが、その中で「ゑんま堂」だけがほとんどの演目にセリフがあり、 念仏狂言の中でも能狂言と一番影響を与え合った関係にあるのではないかと言われている。
 念仏狂言は白衣の僧や、町衆姿での登場が一般的である。演者全員が着面で、頭も頭巾などを被っている。念仏狂言の囃子は、わに口と呼ばれる鉦と、しめ太鼓、篠笛により行われ、素朴なメロディー、リズムが特徴である。能狂言の演技は、直立不動でセリフを発する洗練されたイメージであるのに対し、念仏狂言では、指差しなど、オーバーアクションで演じる。
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補足情報

*京都の大念仏狂言:千本ゑんま堂のほかに、中京区の壬生寺、神泉苑、右京区の清凉寺(嵯峨釈迦堂)に伝わり、それぞれ登録無形民俗文化財や無形重要文化財に指定されている。 この、ゑんま堂狂言・壬生狂言・神泉苑狂言・嵯峨狂言、4つの狂言の総称が「大念仏狂言」である。
*小野篁。平安前期の官人・学者・歌人。遣唐副使に任ぜられたが、大使藤原常嗣の専横を怒って、病と称して命を奉ぜず、隠岐に流され、のち召還されて参議。博学で詩文に長じた。この世とあの世を行き来する神通力をもち、昼は宮中に赴き、夜は閻魔王に仕えたとの伝説を残す。
関連リンク 千本ゑんま堂 引接寺(WEBサイト)
参考文献 千本ゑんま堂 引接寺(WEBサイト)
「京都」1995 京都府観光連盟
「広辞苑 第三版」岩波書店

2025年05月現在

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