角屋もてなしの文化美術館
京都駅からJR嵯峨野線で1駅の梅小路京都西駅から徒歩約8分にある。1641(寛永18)年、六条三筋町から島原(現在地)に移転以来、明治初期まで連綿と家督を維持守成してきた揚屋*で、現存する揚屋建築唯一の遺構として1952(昭和27)年に国の重要文化財に指定された。町家造に書院造や数寄屋造を取り入れて、室内の意匠に趣向を凝らし、江戸時代の面影をよく留めている。幕末には西郷隆盛ら勤皇の志士たちが会議を行ったり、新選組が酒宴を開いたりし、芹沢鴨が付けたといわれる刀傷のある柱*が残っている。また角屋の座敷には、応挙・蕪村など当時一流の画人の襖絵がある。また、江戸中期の島原には俳壇*が形成されており、角屋6代目・7代目当主は蕪村、太祇(たいぎ)*らを師とし、俳壇の中核として活躍していた。
1998(平成10)年からは、「角屋もてなしの文化美術館」として新たに開館、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行っている。
1998(平成10)年からは、「角屋もてなしの文化美術館」として新たに開館、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行っている。

みどころ
角屋もてなしの美術館は江戸時代、社交遊宴サロンの場であった揚屋文化の余香を今に伝えている。京に在った各藩邸留守居役の着任・離任時に、祝いの振舞(もてなし)の様子を記した献立帖が残されているなど、江戸時代の京都の歴史が記録され貴重である。それらは随時開催される企画展などで拝見することができる。
また、周辺には江戸時代の花街(かがい)・島原の名残を残す文芸碑が随所に残されている。その一つ、大田垣蓮月の歌碑が立つ島原大門は、島原の入り口の東門であり、1867(慶応3)年に建てられた神社仏閣なみの高麗門だ。ほかにも吉井勇の歌が刻まれた歌舞練場跡記念碑、与謝蕪村の句が刻まれた東鴻臚館址の碑など多数。
また、周辺には江戸時代の花街(かがい)・島原の名残を残す文芸碑が随所に残されている。その一つ、大田垣蓮月の歌碑が立つ島原大門は、島原の入り口の東門であり、1867(慶応3)年に建てられた神社仏閣なみの高麗門だ。ほかにも吉井勇の歌が刻まれた歌舞練場跡記念碑、与謝蕪村の句が刻まれた東鴻臚館址の碑など多数。

補足情報
*揚屋:揚屋とは太夫(たゆう)・芸妓等を一切かかえず、置屋から派遣してもらい宴会を催す場である。現在の料理屋・料亭にあたるもの。角屋をはじめとする島原(京都市下京区の花街)の揚屋は、江戸中期以降大型宴会場へと発展していった。
*刀傷のある柱:緞子の間入口の柱に1カ所、青貝の間神棚の左右に3カ所ある。
*俳壇:俳句を作る人たちの社会。俳人仲間の世界。
*太祇: 江戸中期の俳人。蕪村と交わり、中興俳諧先達の一人。とくに人事句に秀でた。編著に《鬼貫句選》、句集に《太祇句選》《太祇句選後編》など。
*刀傷のある柱:緞子の間入口の柱に1カ所、青貝の間神棚の左右に3カ所ある。
*俳壇:俳句を作る人たちの社会。俳人仲間の世界。
*太祇: 江戸中期の俳人。蕪村と交わり、中興俳諧先達の一人。とくに人事句に秀でた。編著に《鬼貫句選》、句集に《太祇句選》《太祇句選後編》など。
関連リンク | 角屋保存会(島原角屋 公式サイト)(WEBサイト) |
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参考文献 |
角屋保存会(島原角屋 公式サイト)(WEBサイト) 「全国博物館総覧」ぎょうせい 「京都ミュージアム探訪」京都市内博物館施設連絡協議会 |
2025年05月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。