京都御所きょうとごしょ

京都御苑*の西北部にあり、地下鉄烏丸線今出川駅から徒歩5分。東西約250m、南北約445m、面積約11万m2。周囲に5筋の白線をつけた築地塀と清流の溝を巡らし、南に建礼(けんれい)門、北に朔平(さくへい)門、東に建春門、西に宜秋(ぎしゅう)門、清所門、皇后門を置く。御所の正殿である紫宸(ししん)殿は建礼門の正面に南面する。紫宸殿の西北に東面して清涼(せいりょう)殿、東北には小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常(おつね)御殿が続き、北の一角に皇后宮常御殿(こうぐうぐうつねごてん)がある。建物は桧皮葺の屋根が多く、王朝時代を偲ばせる優雅な寝殿造が立ち並び、全体に清楚なたたずまいを見せる。
 もと平安京の中心にあった大内裏*とは位置も規模もまったく異なり、現在の御所は、南北朝時代の1331(元弘元)年、北朝初代の光厳(こうごん)天皇が里内裏(さとだいり)*の一つであった土御門(つちみかど)東洞院邸を皇居としたもの。その後、徳川2代将軍秀忠の娘和子(まさこ)の入内の折に大がかりな拡張増築が行われた。その後も天明の大火では平安時代の古制に則って再興、安政の大火の際も翌年の1855(安政2)年、焼失前の姿に再建された。
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みどころ

参観の入口は京都御所西側中央の清所門。京都御苑の中立売(なかだちうり)御門から入るのが近い。参観の最初は、堂々とした唐破風の御車寄(おくるまよせ)。続いて、公式訪問者の控えの間である諸大夫(しょだいぶ)の間がある。3室に分かれ、それぞれの襖絵は狩野永岳らが描いた桜、鶴、虎。南側の新御車寄は大正天皇即位時に、馬車や車で利用しやすいように増築したもの。紫宸殿正面に立つ朱塗りの承明門からは回廊が左右に延びている。この門の南側が御所の正門である建礼門*。紫宸殿*は昭和天皇まで歴代の即位式をはじめ、重要儀式が行われてきた。白砂の前庭には東に左近の桜、西に右近の橘を植える。紫宸殿の北側に沿って進むと清涼殿*。もとは天皇日常の御座所だった建物で、ここも白砂の東庭に呉竹(くれたけ)、漢竹(かわたけ)を植えている。
 清涼殿の東には幕末の小御所会議で知られる小御所*、蹴鞠(けまり)の庭を挟んで御学問所*が並んでいる。その前には、広い池を中心とした明るい回遊式庭園の御池庭(おいけにわ)*がのびやかに広がる。池の北西には、剣璽(けんじ)の間など15の部屋をもち御所で最も大きい御常御殿*。天皇の日常的な住まいで、かつては歳とった一部の人を除き、成人男性は立ち入り禁止であったという。東側にある御内庭は植込みの間に鑓水が流れ、土橋や石橋が架かり、さまざまな灯籠が据えられている。ただし、御池庭、御内庭とも参観者は回遊できない。最後は御常御殿の南西に続く御三間(おみま)。上段の間・中段の間・下段の間が並び、「朝賀図」、「賀茂祭群参」など色鮮やかな襖絵で飾られている(御三間内は通常の公開では見られない)。
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補足情報

*京都御苑:京都御所と大宮・仙洞御所を含む広い緑地。その地域は東は寺町通から西は烏丸通まで、北は今出川通から南は丸太町通までの東西約700m、南北約1,300m、面積約65万m2に及ぶ。苑内は玉砂利を敷きつめた広い道が縦横に走り、緑の芝生と樹木の間に築地塀と宮殿の屋根が見え隠れしている。もとは御所を囲んで、皇族・公卿の邸宅が立ち並んでいたが、1869(明治2)年の東京遷都で建物が次第に取り払われ、現在のような公園になった。御苑の西側には幕末1864(元治元)年の「禁門の変(蛤御門の変)」で有名な蛤御門があり、戦いの際の銃弾痕がこの門に多く残っている。
*大内裏:現在のJR嵯峨野線(山陰本線)二条駅のやや北に朱雀門を置き、北は一条通、東は大宮通、西は御前通までの、現在の京都御苑の倍近い面積を占め、千本丸太町に大極殿、その北東に天皇の住む内裏、南西に豊楽殿を設けていた。
*里内裏:天皇が住む内裏が罹災したときなど、復興までの間、天皇が仮に滞在する臣下の邸宅を里内裏と称した。
*建礼門:京都御所の南正門である。切妻造、桧皮葺の四脚門で、南門ともいう。普段は閉ざされていて、天皇および外国元首などの来訪や、即位式・立后・立太子など紫宸殿で行う重要儀式のときにだけ開かれる。
*紫宸殿:御所の主要建物の最南にあることから南殿(なでん)、前殿ともいう。東西約33m、南北約23m、入母屋造、桧皮葺、高床式総桧の大建築。寝殿造で内部はすべて板敷とし、四方に廂(ひさし)を設け、母舎(もや)の中心に玉座の高御座(たかみくら)と、皇后のための御帳台(みちょうだい)がある。
*清涼殿:入母屋造、桧皮葺。これも寝殿造の様式で、紫宸殿より床が低く、間仕切りが多い複雑な構成になっている。東庭の西側を約50cm幅の御溝水(みかわみず)が流れ、北寄りの水が落ちるところを滝口という。むかし内裏警固の武士、いわゆる「滝口の武士」が控えていたところである。
*小御所:入母屋造、桧皮葺。寝殿造と書院造の中間の様式で、蔀戸(しとみど)に代わって上半分が蔀の半蔀(はじとみ)が用いられている。内部の一部は畳敷。1868(慶応3)年、大政奉還を受け、王政復古の大号令の下で開かれた最初の会議「小御所会議」が開かれ、徳川慶喜の辞官納地などが決定された。1954(昭和29)年に鴨川の打ち上げ花火で焼失、1959(昭和34)年に再建。
*御学問所:外観は書院造。表面に何本かの細い桟を取り付けた板戸の舞良戸(まいらど)を用い、内部は小御所よりさらに書院造風になって、床や違棚を備える。
*御池庭:池中に中島を設け、西岸の緩やかな傾斜の水際には玉石を敷きつめて洲浜を造り、全体にのびやかな趣がある。
*御常御殿:入母屋造、桧皮葺。秀吉が清涼殿から天皇の居住機能を独立させて、書院造の様式で建てたのに始まるという。新年の祝賀や拝謁も行われた。剣璽の間は三種の神器のうちの剣と勾玉を奉安する部屋。
関連リンク 宮内庁(WEBサイト)
参考文献 宮内庁(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社

2025年05月現在

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