法金剛院ほうこんごういん

JR山陰本線(嵯峨野線)花園駅下車、徒歩約3分。平安時代に貴族の別荘や寺院が営まれた双ヶ丘の山麓にある。830(天長7)年頃、右大臣清原夏野がこの地に山荘を築いた。清原の死後、山荘を寺に改め、双丘寺と号したのが始まり。庭園に珍花奇花を植え、嵯峨・淳和・仁明天皇の行幸を仰いだ。なかでも仁明天皇は寺の背後の内山に登られ、その景勝を愛で、五位の位を授けられたので、内山は五位山と呼ばれ、当寺の寺号も五位山とされた。
 858(天安2)年、文徳天皇が伽藍を建立し天安寺と改称。1130(大治5)年、待賢門院*が再興し、名を法金剛院と改めた。女院の勢力を背景に、広大な寺地に池泉を造り、諸堂や女院の御所を造営。壮麗を極めた寺は、あたかも極楽浄土のようだった。その後、応仁・文明の乱や、天正~慶長期の大地震で堂宇を失い衰微。1617(元和3)年、照珍和尚が本堂・経蔵等を建立したが、旧に復することはできなかった。明治時代には山陰線の建設により寺域は二分され縮小、1968(昭和43)年には丸太町通の拡幅工事により諸堂を境内の北側に移した。それでも、双ヶ丘を背景に諸堂が端正な姿を見せ、復元された庭園が往時を偲ばせている。
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みどころ

表門、中門を抜け、境内奥へ進むと本堂(礼堂)があり、その後方に立つ仏殿に諸仏を安置する。本尊の定朝様式*の阿弥陀如来坐像*は国宝。ほかに、重要文化財の厨子入十一面観音坐像*、僧形文珠菩薩坐像、地蔵菩薩立像などが並んでいる。
 境内の東半分は池泉回遊式浄土式庭園。五位山麓の「青女の滝」は1968(昭和43)年の境内の発掘調査で見つかった遺構を復元したもの。巨石を積み上げた高さ5mの豪壮な滝で、特別名勝に指定されている。法金剛院はいつの季節でも花々に迎えられる「花の寺」でもあり、特に「待賢門院桜」と称する枝垂れ桜と、庭園の池を埋めて咲くハスが有名。このほか、ツバキ、アセビ、花ショウブ、沙羅の花、アジサイ、キキョウなどが折々に咲く。
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補足情報

*待賢門院:藤原公実の娘で名は璋子。美貌で知られた。白河法皇に養女として育てられ、鳥羽天皇の中宮になり、崇徳・後白河天皇を生む。のちに美福門院のために鳥羽天皇の寵を失った。陵は五位山の北東麓にある。西行法師は待賢門院の死後に法金剛院を訪れ、彼女を偲んで「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行くへを」と詠った。西行法師が出家した背景はいろいろ取りざたされるが、その一つに待賢門院に失恋したからという説もある。
*定朝様式:すべてを柔らかな曲線と曲面でまとめ、彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的でありながら微睡むような表情など、それまでの一木造特有の重みや物質感を廃した柔和で優美な造形が特徴。 こうした定朝の仏像は平安貴族の好尚に合致し、「仏の本様」と讃えられた。
*阿弥陀如来坐像:八角九重の蓮華座に座し、定印(じょういん)を結ぶ。定朝様式の流れをくみ、二重光背や台座の蓮弁の彫刻は実に繊細である。
*厨子入十一面観音坐像:鎌倉時代の作。繊細豪華な金属工芸の装飾に飾られる。
関連リンク 法金剛院(WEBサイト)
参考文献 法金剛院(WEBサイト)
資料「法金剛院」
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社

2025年05月現在

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