神護寺
京都駅からJRバスで約1時間、高雄下車、徒歩20分。三尾*の一つ、高雄山の山腹にある真言宗の古刹である。紅葉の名所としても名高い。
東寺や高野山金剛峰寺とともに真言密教の寺院として古い歴史をもつ。781(天応9)年、和気清麻呂*が、河内国に神願寺を、同時期に当地に高雄山寺を建立。清麻呂没後、息子の弘世・真綱・仲世らが最澄・空海を招請。809(大同4)年、唐から帰国した空海が高雄山寺に入山、10数年間、住持を務めた。824(天長元)年に高雄山寺と神願寺が合併して、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ。略して神護寺)が開かれた。平安時代に2度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失したが、平安末期に文覚上人*が再興を図り、後白河法皇・源頼朝の寄進を得て、復興に向かった。諸堂は大師堂*(重要文化財)を除き応仁・文明の乱で焼失したが、1623(元和9)年、龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって、楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼(梵鐘*は国宝)を再興。1935(昭和10)年、山口玄洞居士の寄進によって、昭和の名建築といわれる金堂、多宝塔などが再建されて、今日の寺観を整えた。
山岳寺院らしく、高雄バス停から清滝川まで下ったのち、長く険しい参道の石段を登って行く。その途中にある硯石*は、能書家として知られる空海にかかわる伝承をもつ。石段を登り切り、入口の楼門を過ぎると境内が開ける。松・楓・桜の古木を背景に、諸堂が立つ。金堂には本尊の木造薬師如来立像*(国宝)と脇侍の日光・月光菩薩立像(重文)を安置。金堂の右後方の多宝塔には、木造五大虚空蔵菩薩坐像*(国宝)を祀る。塔内は通常非公開だが、例年5月と10月に各3日間ほど開扉される。金堂の前方には五大堂、毘沙門堂、そしてやや後方に大師堂がある。毘沙門堂には木造毘沙門天立像(重要文化財)を安置する。少し離れて地蔵院があり、かわらけ投げ*ができる。
東寺や高野山金剛峰寺とともに真言密教の寺院として古い歴史をもつ。781(天応9)年、和気清麻呂*が、河内国に神願寺を、同時期に当地に高雄山寺を建立。清麻呂没後、息子の弘世・真綱・仲世らが最澄・空海を招請。809(大同4)年、唐から帰国した空海が高雄山寺に入山、10数年間、住持を務めた。824(天長元)年に高雄山寺と神願寺が合併して、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ。略して神護寺)が開かれた。平安時代に2度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失したが、平安末期に文覚上人*が再興を図り、後白河法皇・源頼朝の寄進を得て、復興に向かった。諸堂は大師堂*(重要文化財)を除き応仁・文明の乱で焼失したが、1623(元和9)年、龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって、楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼(梵鐘*は国宝)を再興。1935(昭和10)年、山口玄洞居士の寄進によって、昭和の名建築といわれる金堂、多宝塔などが再建されて、今日の寺観を整えた。
山岳寺院らしく、高雄バス停から清滝川まで下ったのち、長く険しい参道の石段を登って行く。その途中にある硯石*は、能書家として知られる空海にかかわる伝承をもつ。石段を登り切り、入口の楼門を過ぎると境内が開ける。松・楓・桜の古木を背景に、諸堂が立つ。金堂には本尊の木造薬師如来立像*(国宝)と脇侍の日光・月光菩薩立像(重文)を安置。金堂の右後方の多宝塔には、木造五大虚空蔵菩薩坐像*(国宝)を祀る。塔内は通常非公開だが、例年5月と10月に各3日間ほど開扉される。金堂の前方には五大堂、毘沙門堂、そしてやや後方に大師堂がある。毘沙門堂には木造毘沙門天立像(重要文化財)を安置する。少し離れて地蔵院があり、かわらけ投げ*ができる。

みどころ
地蔵院の庭からは重なり合う山々の間を縫って流れる清滝川の渓谷、錦雲渓の大観を見下ろすことができ、特に渓谷を埋め尽くす紅葉の美しさは高雄随一。京都でも、一級の紅葉が観賞できる。
神護寺は優れた仏像、絵画、書跡を所蔵することでも知られる。絵画では、藤原隆信*筆とされる、絹本着色伝源頼朝像(国宝)・伝平重盛像(国宝)・伝藤原光能像(国宝)が有名。伝頼朝像は、束帯をつけた公卿姿坐像で、笏を手に剣を帯す。温厚な風格と格調高い顔の描写が特徴。日本の肖像画史上の傑作だが、この画像は頼朝ではなく、足利尊氏の弟・直義という説が出されている。その場合、残り2像は足利尊氏、足利義詮という。これらの寺宝は、毎年5月1~5日の虫払い行事で、書院にて一部が公開される。
神護寺は優れた仏像、絵画、書跡を所蔵することでも知られる。絵画では、藤原隆信*筆とされる、絹本着色伝源頼朝像(国宝)・伝平重盛像(国宝)・伝藤原光能像(国宝)が有名。伝頼朝像は、束帯をつけた公卿姿坐像で、笏を手に剣を帯す。温厚な風格と格調高い顔の描写が特徴。日本の肖像画史上の傑作だが、この画像は頼朝ではなく、足利尊氏の弟・直義という説が出されている。その場合、残り2像は足利尊氏、足利義詮という。これらの寺宝は、毎年5月1~5日の虫払い行事で、書院にて一部が公開される。

補足情報
*三尾:京都市北西郊の高雄(高尾)、槇尾、栂尾を三尾(さんび)という。
*和気清麻呂:733~799。奈良末期~平安初期の公卿。弓削道鏡が皇位を奪おうとした事件では宇佐八幡の信託をもって道鏡の野心を封じ、そのため大隅に流された。のち桓武天皇の信任を受け平安京の造営大夫となった。
*文覚上人:生没年不詳 平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠といい上西門院の北面の武士であったが、源渡の妻・袈裟御前に横恋慕したあげく誤って殺したため、出家した。荒行を積み、神護寺の再興に力を尽くしたが、伊豆に流され、源頼朝の知遇を得た。のち佐渡、対馬に配送され、没す。
*大師堂:毘沙門堂の西南に立つ、納涼房ともいい、1168(仁安3)年に再建されたものを桃山時代に改築した。入母屋造、柿葺で妻入の住宅風建築。本尊は板彫弘法大師像である。この像は半肉彫ながら立体感に満ち、唇に朱の彩色を施す。1302(正安4)年、定喜の作で鎌倉彫刻の秀作。
*梵鐘:875(貞観17)年の制作。境内の北、和気清麻呂霊廟の奥にある鐘楼に架かる。高さ148cm、口経80cmで、形の平等院、音色の三井寺、銘の神護寺といわれる日本三名鐘の一つ。また4面に書かれた銘文の詞は橘広相(たちばなひろみ)、銘は菅原是善(これよし)、書は藤原敏行で当代一流の人物によったため三絶の鐘とも呼ばれる。
*硯石:空海が神護寺で修行していたとき、嵯峨天皇が金剛定寺の門額を書くよう勅使を送ってきた。ところが清滝川が増水して勅使が川を渡れなかったので、空海はこの岩で墨をすり、空に向かって金剛定寺と書いたところ、文字が金剛定寺に飛んでいき、門額に金剛定寺の文字が現れたといわれる。
*薬師如来立像:金堂の本尊で、神護寺の前身である河内国の神願寺開創時の本尊と思われる。高さ170cm、頭部から台座の蓮肉まで檜の一木で彫られ、唇・眼のほかは彩色を施さない素木造である。瞼・鼻・唇・衣文に鋭い彫り跡があり、森厳な表情をたたえ、量感に満ちた造像で、貞観彫刻の傑作である。
*五大虚空蔵菩薩坐像:多宝塔の本尊で、塔内右手から緑色宝光・赤色蓮華・白色法界・黒色業用・黄色金剛の5体が並ぶ。檜の一木造、胡粉彩色を施し、女性的な艶麗さの漂う像で、大阪府河内長野市の観心寺の如意輪観音坐像と共通した手法が見られる。836(貞和3)年ころの製作。金堂の薬師如来立像と同じく貞観時代の真言密教彫刻の代表作。
*かわらけ投げ:清滝川の渓谷「錦雲峡」に向けて、疫病退散や魔除けなどの願いを込めて素焼きの皿を投げる。
*藤原隆信:1142~1205。平安後期の公卿。為経子で歌人定家の異父兄。歌人・絵師としても知られる。特に肖像画にすぐれ似絵の分野を開拓。大和絵風肖像画の第一人者。
*和気清麻呂:733~799。奈良末期~平安初期の公卿。弓削道鏡が皇位を奪おうとした事件では宇佐八幡の信託をもって道鏡の野心を封じ、そのため大隅に流された。のち桓武天皇の信任を受け平安京の造営大夫となった。
*文覚上人:生没年不詳 平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠といい上西門院の北面の武士であったが、源渡の妻・袈裟御前に横恋慕したあげく誤って殺したため、出家した。荒行を積み、神護寺の再興に力を尽くしたが、伊豆に流され、源頼朝の知遇を得た。のち佐渡、対馬に配送され、没す。
*大師堂:毘沙門堂の西南に立つ、納涼房ともいい、1168(仁安3)年に再建されたものを桃山時代に改築した。入母屋造、柿葺で妻入の住宅風建築。本尊は板彫弘法大師像である。この像は半肉彫ながら立体感に満ち、唇に朱の彩色を施す。1302(正安4)年、定喜の作で鎌倉彫刻の秀作。
*梵鐘:875(貞観17)年の制作。境内の北、和気清麻呂霊廟の奥にある鐘楼に架かる。高さ148cm、口経80cmで、形の平等院、音色の三井寺、銘の神護寺といわれる日本三名鐘の一つ。また4面に書かれた銘文の詞は橘広相(たちばなひろみ)、銘は菅原是善(これよし)、書は藤原敏行で当代一流の人物によったため三絶の鐘とも呼ばれる。
*硯石:空海が神護寺で修行していたとき、嵯峨天皇が金剛定寺の門額を書くよう勅使を送ってきた。ところが清滝川が増水して勅使が川を渡れなかったので、空海はこの岩で墨をすり、空に向かって金剛定寺と書いたところ、文字が金剛定寺に飛んでいき、門額に金剛定寺の文字が現れたといわれる。
*薬師如来立像:金堂の本尊で、神護寺の前身である河内国の神願寺開創時の本尊と思われる。高さ170cm、頭部から台座の蓮肉まで檜の一木で彫られ、唇・眼のほかは彩色を施さない素木造である。瞼・鼻・唇・衣文に鋭い彫り跡があり、森厳な表情をたたえ、量感に満ちた造像で、貞観彫刻の傑作である。
*五大虚空蔵菩薩坐像:多宝塔の本尊で、塔内右手から緑色宝光・赤色蓮華・白色法界・黒色業用・黄色金剛の5体が並ぶ。檜の一木造、胡粉彩色を施し、女性的な艶麗さの漂う像で、大阪府河内長野市の観心寺の如意輪観音坐像と共通した手法が見られる。836(貞和3)年ころの製作。金堂の薬師如来立像と同じく貞観時代の真言密教彫刻の代表作。
*かわらけ投げ:清滝川の渓谷「錦雲峡」に向けて、疫病退散や魔除けなどの願いを込めて素焼きの皿を投げる。
*藤原隆信:1142~1205。平安後期の公卿。為経子で歌人定家の異父兄。歌人・絵師としても知られる。特に肖像画にすぐれ似絵の分野を開拓。大和絵風肖像画の第一人者。
関連リンク | 神護寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
神護寺(WEBサイト) 「京都府の歴史散歩 上」山川出版社 パンフレット「高雄山神護寺」 |
2025年05月現在
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