曼殊院まんしゅいん

市バス一乗寺清水町から徒歩20分。延暦年間(728~806)、最澄が比叡山上に建てた小堂を草創とする。のちに比叡山の西塔北谷に移され、東尾坊と称した。947(天暦元)年、北野神社(現北野天満宮)が造営されると、当時の住持、是算国師は菅原氏の出であったので勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。
 平安後期の天仁年間(1108~1110)に曼殊院と改められ、北山に別院を建立。のち御所の近くに移転した。文明年間(1469~1487)に伏見宮貞常親王の皇子・慈運親王が入寺して以降、代々法親王が門主を務める門跡寺院となった。1656(明暦2)年、修学院離宮の南の現在地に移転。現在に残る建物や庭園はこのときのもので、桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王の御子の良尚法親王が造った。桂離宮とともに日本を代表する数寄屋風書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深いことから、曼殊院は「小さな桂離宮」といわれる。
 庫裏*、大書院(本堂)*、小書院*、茶室の八窓軒*、大玄関の虎の間の襖絵「竹虎図」*などは重要文化財の指定を受けている。庭園は国の名勝である。寺宝として、国宝の絹本著色不動明王像と古今和歌集があるが、ともに京都国立博物館に保託されている。
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みどころ

書院の南に広がる枯山水庭園は、小堀遠州好みの作庭とも伝えられ、枯山水の川の流れも見事。庭の東南奥に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石から広がり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松(樹齢約400年)があって、鶴をかたどる。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠または曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島にはもと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島ツツジは5月初旬、紅に映えて見事である。境内の紅葉も美しい。この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。
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補足情報

*庫裏 石造の大黒天は鎌倉時代のもの。入り口の大妻屋根の額「媚竈(びそう)」は良尚親王筆。
*大書院(本堂):寄棟造、柿葺の江戸時代初期の代表的書院建築。内部は十雪・滝の間の2室に分かれ、廊下の杉戸の引手は経巻・扇子・瓢箪・鞭の形をした巧妙なもの。本尊は阿弥陀如来。
*小書院:江戸時代初期の書院建築の代表的なもの。寄棟造、柿葺。入込(いりこみ)・黄昏(たそがれ)・富士の間の3室からなり、襖絵は狩野探幽筆と伝える。富士山の形をした釘隠しや上段の床飾り・菊の欄間など繊細な工夫がある。
*八窓軒:小書院の北に隣接する、小堀遠州好みといわれる3畳台目の茶室である。にじり口の連子窓、その左の重ね窓など、名のとおり8つの窓がある。
*竹虎図:狩野永徳が描いたと伝わる。桃山時代。
関連リンク 曼殊院門跡(WEBサイト)
参考文献 曼殊院門跡(WEBサイト)
「京都府の歴史散歩 中」山川出版社

2025年05月現在

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