光悦寺こうえつじ

市バス鷹峯源光庵前で下車し、三差路を約150m西へ入った南側に光悦寺がある。1615(元和元)年、本阿弥光悦*は徳川家康から拝領した鷹ケ峯の地に、一族縁者や工芸職人、豪商とともに移り住み、光悦を中心とする、いわば芸術村を営んだ。光悦の死後、幕府に返還されたが、すこしでもその足跡を残すためにと寺院を建てた。それが光悦寺である。寺は、本阿弥家の先祖供養のために設けられた位牌所を寺にしたものといい、本法寺の日慈を開山とする。カエデが天を薄くおおう境内には、光悦の意気が感じられる太虚庵(たいこあん)をはじめ、三巴亭(さんぱてい)、了寂軒(りょうじゃくけん)、本阿弥庵などの茶室が散在する。光悦、光瑳、光甫と3代にわたる墓や、板倉勝重*父子の供養塔がある。境内は、茶室への露地が重なって全体が茶庭となっている。背後に、鷹峯三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)が見守っている。太虚庵前の垣根は光悦垣あるいは臥牛垣とも呼ばれ、竹を斜めに組んだ独特のものである。
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みどころ

細長い参道は、みごとなカエデをくぐるようにあり、やがて開けると、京都の寺院のどこにもみられない、さまざまな木々におおわれた境内となる。常緑樹が多く雑木の庭のようである。美しい光悦垣をながめながら、かつて光悦寺周辺が芸術村であったことに思いを馳せたい。
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補足情報

*本阿弥光悦:1558~1637年。江戸初期随一の文化人。家業の刀剣の鑑定・研磨のほか、絵画・陶芸・書道・茶道・作庭などに独創的な才能を発揮。日本文化を伝えることに大きな功績を残した。
*板倉勝重:徳川家康に召し出されて重用され、駿府町奉行、江戸町奉行、京都所司代などを歴任。1609(慶長14)年に所領1万石以上になり譜代大名となった。その後所領は何度か転封されたが、1744年(延享元)年以降は備中松山藩5万石の藩主家として続いた。
関連リンク 京都観光Navi(WEBサイト)
参考文献 京都観光Navi(WEBサイト)
東海旅客鉄道株式会社(WEBサイト)

2025年05月現在

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