旧嵯峨御所 大本山大覚寺きゅうさがごしょ だいほんざんだいかくじ

JR山陰本線(嵯峨野線)嵯峨嵐山駅から徒歩15分。大沢池を東に望む北嵯峨の景勝地に立つ。真言宗大覚寺派の本山で、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた門跡寺院。般若心経写経の根本道場・いけばな嵯峨御流の総司所*でもある。
 嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を、876(貞観18)年に天皇の皇女で淳和天皇皇后の正子内親王が、恒寂入道親王を開山として寺に改め、大覚寺と号した。1268(文永5)年に後嵯峨上皇が入寺し、さらに亀山・後宇多上皇も入寺した。後宇多法皇はここで院政を行ったため、寺は嵯峨御所と呼ばれた。この皇統は大覚寺統と呼ばれ、後深草天皇の皇統である持明院統と交互に皇位についたが、後醍醐天皇の建武中興でこの原則が崩れ、さらに足利尊氏が持明院統(北朝)を擁立したことから南北朝の争いに発展した。1392(元中9)年に大覚寺において講和が成立し、南朝最後の天皇の後亀山天皇はここに隠棲した。以後、明治時代まで代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた。この間、応仁・文明の乱で荒廃したが、織田信長や豊臣秀吉の寄進で復興。江戸時代には徳川家康にも保護され、寛永年間(1624~1644)にはほぼ今日の寺観が整えられた。
 寺は今も御所風の典雅な雰囲気を漂わせている。宸殿*・正寝殿*・心経殿・心経前殿(御影堂)、五大堂(本堂)などが回廊で結ばれており、境内東には大沢池が広がっている。表門横には明智門があり、その奥にある明智陣屋とともに、明智光秀の居城・亀山城の一部を移築したものと伝わる。
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みどころ

大覚寺は多くの寺宝を伝えており、その一つが襖絵。式台玄関、宸殿、正寝殿の襖絵は重要文化財に指定されており、なかでも宸殿の「牡丹図」「紅白梅図」は狩野山楽の傑作である。現在、堂内を飾っているのは模写で、重要文化財の実物は境内の霊宝館に収められている。霊宝館にはほかに平安後期の仏師・明円による五大明王像(重要文化財)なども安置されており、春と秋に各2カ月ほど公開される(その時のテーマによって公開内容は異なる)。
 これらの寺宝に加えて、大覚寺の魅力を高めているのが大沢池*。嵯峨天皇の離宮・嵯峨院の庭池として造られたのが始まりであり、平安時代から大覚寺と一体のものである。池中には菊ヶ島と天神島があり、周囲は桜や紅葉に彩られる。北岸には藤原公任の歌で知られる名古曽の滝跡がある。池越しに眺める大覚寺の伽藍も美しく、逆に五大堂のぬれ縁(観月台)からは大沢池の眺望を楽しむことができる。伽藍中心部と、大沢池のあるエリアの拝観料は別建てになっているが、ぜひ両方を訪ねて楽しんでほしい。
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補足情報

*嵯峨御流の総司所:嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く菊花を手折り、花瓶に挿されたおり、その姿がおのずから「天・地・人」の三才の法に適っており、「後世、花を愛でるものはこれを範とすべし」と仰せられたのが始まりとされる。毎年、4月15日前後に、華道祭が開かれ、嵯峨御流の全国司所、役職者や海外司所のいけばな作品が展示される。
*心経殿:818(弘仁9)年、嵯峨天皇が疫病退散を祈願して写経した般若心経をはじめ、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇宸筆の般若心経を納める。内部は非公開。建物は1925(大正14)年の再建。
*宸殿:重要文化財。後水尾天皇の中宮・東福門院の御殿を移築した寝殿造風の建物。内部は牡丹の間・紅梅の間・柳松の間・鶴の間に分かれる。
*正寝殿:重要文化財。桃山時代建立の書院造建築。内部は12室に分かれ、狩野山楽や渡辺始興の障壁画で飾られている。上段の間は「御冠の間」と呼ばれ、後宇多法皇が執政された部屋で、正面にある帳台構は嵯峨蒔絵である。
*大沢池:現存する日本最古の庭池。中国の洞庭湖になぞらえて造られたことから庭湖とも呼ばれる。
関連リンク 大覚寺(WEBサイト)
参考文献 大覚寺(WEBサイト)
大覚寺作成パンフレット
「京都府の歴史散歩 上」山川出版社

2025年05月現在

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