酬恩庵(一休寺)しゅうおんあん(いっきゅうじ)

JR京田辺駅から東へ約1.3km。元の名は妙勝寺で、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後の1267(文永4)年、禅の道場をここに建てたのが始まりである。その後、元弘の戦火にかかり復興もならず荒廃していたものを、一休禅師*が、1456(康正2)年、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。今では一休にちなみ一休寺の名で知られている。 
 後小松天皇の皇子である一休の墓の宗純王廟・虎丘庵*(通常非公開)・方丈*・本堂*・庫裏・唐門・鐘楼・浴室・東司・開山堂など堂々たる建物が緑の木々に映え古刹の重厚さを伝えている。
 一休禅師はここで後半の生涯を送り81歳で大徳寺住職となった時も、この寺から通った。1481(文明13)年11月21日、88歳の高齢を以って当寺で示寂され、遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休寺」の通称が知られるに至った。
 一休禅師は、禅と共に中国から伝わった寺納豆の製法を広めた。今も境内で「一休寺納豆」*として作り続けられている。
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みどころ

境内が整備されたのは1650(慶安3)年、加賀藩主前田利常の寄進によるものである。方丈庭園は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の三名による合作で名勝庭園に指定されている。方丈内には一休の弟子、墨斎による木像が安置されている。室内には狩野探幽による襖絵がおさめられている(デジタルによる高精細な複製画。本物は宝物殿に収蔵)。境内の西南隅にある本堂には本尊の釈迦如来坐像などを安置。永享年間(1429~1441年)、足利義教の帰依によって建立されたもので、山城・大和地方の唐様建築の中で最も古いという。また開山である大応国師をまつる開山堂は、2024年にチタン屋根葺き替えによる修繕が行われたもので日本の先端技術が木造建築に活かされている。
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補足情報

*一休禅師:1394~1481。一休宗純のこと。室町時代の禅僧。後小松天皇の皇子という。大徳寺48世住持。奇行、狂詩で知られ、一休頓智咄で有名だが、これは江戸時代に作られた。
*虎丘庵:方丈南庭から桧皮葺の美しい曲線を描く屋根が望まれる。一休の居室跡で、庭は廟所の庭とともに村田珠光の作という。特別公開日のみ拝観可。
*方丈:重要文化財。1650(慶安3)年、前田利常によって再建された。中央奥の祠堂に坐像の一休禅師木像を安置。禅師の性格をうまく表現した頂相(ちんぞう)の佳作であり、重要文化財に指定されている。方丈の三方に設けられている庭園は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作とされ、国名勝に指定。南庭はサツキの刈込みを奥に配し、西に大きなソテツを植え、刈込から軒下まで、白砂が敷き詰められている。東庭は十六羅漢になぞらえて、大小の石を並べている。北庭は豪壮な石組で枯滝を表現した蓬莱庭園。
*本堂:重要文化財。室町時代の典型的禅宗建築で、単層、入母屋造、桧皮葺。随所に唐様らしい独特の構成をみせる。
*一休寺納豆:大豆に「はったい粉」と麹を混ぜて発酵させ、塩湯とともに桶に移し約1年間、天日干しと撹拌を繰り返すことで作られる。完全に水分が飛べば、真っ黒な一休寺納豆となる。寺内で販売している。
関連リンク 酬恩庵一休寺(WEBサイト)
参考文献 酬恩庵一休寺(WEBサイト)

2025年05月現在

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