田村神社
鉄道はJR草津線油日駅が最寄り駅になるが、土山中学校を目指して北東へ8kmほど歩くことになるため、貴生川駅南口のバスターミナルより市内バスを利用するのが良い。国道1号線のすぐ北、野洲川の支流田村川沿いにある閑静な森の中に鎮座する古社。
開創年代は明らかではないが、812(弘仁3)年の建立と言われる。鈴鹿の鬼退治をした坂上田村麻呂が人々に感謝されて祀られ、のちに厄除けの神様として崇められてきたと伝えられる。毎年、2月17~19日に行われる厄除け祭には多くの人が訪れる。
境内は深い木立に囲まれて広く、大きな鳥居をくぐり参道を行くと、正面に拝殿、やや離れた裏手奥に本殿*があり、境内全体に神聖な雰囲気が漂っている。
開創年代は明らかではないが、812(弘仁3)年の建立と言われる。鈴鹿の鬼退治をした坂上田村麻呂が人々に感謝されて祀られ、のちに厄除けの神様として崇められてきたと伝えられる。毎年、2月17~19日に行われる厄除け祭には多くの人が訪れる。
境内は深い木立に囲まれて広く、大きな鳥居をくぐり参道を行くと、正面に拝殿、やや離れた裏手奥に本殿*があり、境内全体に神聖な雰囲気が漂っている。

みどころ
メインの参道は社殿に向かって直線であるが、東西の両サイドからの参道や境内の道は、杉林のなかに、弧を描いて美しく設計されている。本殿と拝殿がかなり離れているのがめずらしい。ともにすぐれた建築である。第二鳥居前で旧東海道は南東方向に折れ田村橋を渡るが、この道の延長上に江戸時代から昭和初期まで架かっていた板橋が、2005年(平成17)年に、海道橋*として新しく架けられた。
厄除けの神社として知られているので、1 年を通じて厄除けに訪れる参拝者は多いが、2月17 日・18 日・19 日の3 日間、田村まつりとして親しまれる「厄除大祭」には、より多くの参拝者が訪れる。祭の起源は古く、812(弘仁3)年、凶作や疫病で世の人々が苦しんでいたので、坂上田村麻呂の霊験を以て災厄を祓うよう「厄除大祭」斎行の命令が嵯峨天皇より下され、三日三晩にわたる厄除けの大祈祷を行ったところ、災いが収まったと伝えられる。この神徳により、大難を小難に小難を無難にと守護し給う「厄除の大神」として広く厚く崇敬されるようになり、それ以来連綿と続けられ、現在に至っている。大祭では、厄年の厄除祈祷を始め、境内を流れる御手洗川に豆を流して厄をはらう「厄豆落し」などの神事が行われ、多くの参拝者で賑わう。
厄除けの神社として知られているので、1 年を通じて厄除けに訪れる参拝者は多いが、2月17 日・18 日・19 日の3 日間、田村まつりとして親しまれる「厄除大祭」には、より多くの参拝者が訪れる。祭の起源は古く、812(弘仁3)年、凶作や疫病で世の人々が苦しんでいたので、坂上田村麻呂の霊験を以て災厄を祓うよう「厄除大祭」斎行の命令が嵯峨天皇より下され、三日三晩にわたる厄除けの大祈祷を行ったところ、災いが収まったと伝えられる。この神徳により、大難を小難に小難を無難にと守護し給う「厄除の大神」として広く厚く崇敬されるようになり、それ以来連綿と続けられ、現在に至っている。大祭では、厄年の厄除祈祷を始め、境内を流れる御手洗川に豆を流して厄をはらう「厄豆落し」などの神事が行われ、多くの参拝者で賑わう。

補足情報
*本殿:江戸中期に再建された本殿の老朽化が著しいため、2011(平成23)年に造替された。旧本殿と同じ銅板葺き、三間社流れの様式をとっている。
*海道橋:かつて東海道が境内を通っていたため、田村川に板橋が架かっていた。広重の「東海道五十三次」にも登場する。昭和初期に台風で流されてから、交通事情もあり再建されることはなかった。平成に入り再建の機運が高まり、2005(平成17)年に再建され、海道橋と名付けられた。
*海道橋:かつて東海道が境内を通っていたため、田村川に板橋が架かっていた。広重の「東海道五十三次」にも登場する。昭和初期に台風で流されてから、交通事情もあり再建されることはなかった。平成に入り再建の機運が高まり、2005(平成17)年に再建され、海道橋と名付けられた。
関連リンク | 田村神社(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
田村神社(WEBサイト) 滋賀・びわ湖 観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー)(WEBサイト) 『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社 |
2025年04月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。