滋賀院門跡しがいんもんぜき

京阪電鉄坂本比叡山口から国道47号線を西に向かい、生源寺の前を左に折れると、老舗のそば屋鶴喜がある。隣には鶴屋益光、少し先に廣栄堂寿延の和菓子の店があり、ともに延暦寺や日吉大社など各寺院の御用達になっている。この道を進むと、すぐに右手に滋賀院の門がある。現在は延暦寺の本坊があるが、江戸時代末まで天台座主(ざす)の法親王の居所であったため、滋賀院門跡と呼ばれる。
 城郭のような石垣と白壁をめぐらして風格をたたえているが、京都北白川にあった法勝寺(ほうしようじ)を天海僧正*が1615(元和元)年に移したもので、1655(明暦元)年、後水尾天皇より滋賀院の号を賜わった。1878(明治11)年、火災で全焼し、現建築は1880(明治13)年に延暦寺にあった西塔正観院・東塔南谷極楽坊・無動寺谷法曼院・横川鶏足院の建物を移築し、さらに1908(明治41)年には、山麓の慈眼堂内の羅漢堂を内仏殿として移築再建したものである。
 滋賀院の門をくぐると、突き当りに御成門があり、両側に坂本随一とされる穴太衆積みの石垣が延びている。左手通用門から玄関に入るが、ここは総里坊(数多くある里坊の中心)と言われる。約2万m2の境内に、内仏殿・宸殿・二階書院・客殿・庫裏・御成門・通用門に加えて、6棟の土蔵がある。内仏殿の本尊は、木造薬師如来像で、最澄をはじめ後陽成・御水尾・明治の各天皇および江戸幕府各将軍の位牌も祀られている。宸殿の謁見の間には、海北友松筆と言われる図が描かれ、梅の間には江戸時代初期の渡辺了慶筆の図がある。二階書院は、門跡の格式にふさわしい建物で、松の間には鈴木松年筆の襖絵がある。宸殿の西には、家光によってつくられたという池泉観賞式庭園*(国指定名勝庭園)がある。
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みどころ

文化庁の重要伝統的建造物群保存地区である坂本は、穴太衆積みに格調ある土塀をめぐらした54の里坊がびっしりと並んで、門前町の面影を残しているが、その中心がここ滋賀院門跡である。穴太衆とは、自然石を巧みに組み上げた堅固な石垣を造る坂本の石工集団をいい、安土城をはじめとする城郭や寺院などの建築で活躍してきた。里坊とは、昔、延暦寺の僧侶は山で生涯を過ごしたが、山での生活は厳しく、江戸時代のはじめころから、高齢になると天台座主に「山下に里坊を願う」を出して、里に住む許可を得た。この山下の住まいを「里坊」という。
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補足情報

*天海僧正:江戸初期の天台宗の僧。比叡山で天台を、南都で諸宗を学び、家康の知遇を得、内外の政務に参画。川越の喜多院・日光山を授けられる。家康の死後、権現号の勅許を乞い、日光山に改葬し、輪王寺を建立。秀忠・家光にも信任され、上野の寛永寺を開山した。
*庭園:小堀遠州の作庭。蓬莱山(仏教で極楽を意味する)形式をとり、左手に亀島を、右手の滝に巨石で鶴石組をなし、正面を蓬莱山となし、池中央には豪華な切石で橋を架けて細い池庭を引き締めている。南北にある船着石は池にせり出す覗石方式で、切石橋とともに、江戸初期の作風を表している。二階書院より眺める庭園は琵琶湖を借景としており、蹴鞠の庭と呼ばれる。