石山寺
京阪電鉄石山寺駅から約1km、瀬田唐橋から南へ約2km、伽藍山(がらんやま)を背に瀬田川に臨む佳景の地に立つ。天平時代からの豊かな歴史に支えられ、古来石山詣と称して人々に親しまれた。文学にも再々登場し、加えて貴重な文化財も多く保存する。西国三十三所第13番霊場で、今も多くの人が訪れる湖南屈指の名刹。境内には石山寺硅灰石が露出し、本堂や均整美を誇る多宝塔などの諸堂宇と調和して、また桜・ツツジ・紅葉など季節の花にも映えて、独特の霊場の雰囲気を漂わせている。
東大門(国指定重要文化財)*をくぐると参道が伸び、キリシマツツジ(石山ツツジとも呼ばれる)・モミジ・サクラなどを季節ごとに観賞できる。急な階段を登り詰めた正面に、寺名の由来となった巨大な硅灰石(けいかいせき)(天然記念物)の奇岩怪石がある。その左手が本堂(国宝)*、本尊は如意輪観世音菩薩(重要文化財)で、ほかに木造不動明王坐像(重要文化財)などがある。本堂の横から石段を登ったところが多宝塔(国宝)、多宝塔から石段をくだったところにある鐘楼*(重要文化財)は、多宝塔と同じく頼朝の寄進とされる。多宝塔後方の高台には、月見亭が崖を乗り出して立つ。ここからの月の眺めは格別で、近江八景の一つ「石山秋月」として知られる。境内にはこのほか、豊浄殿*、経蔵*、御影堂*など見どころが多い。
『石山寺縁起』によれば、747(天平19)年、聖武天皇が東大寺造営の際、大仏鋳造用の黄金発掘の祈願のため良弁(ろうべん)*が開創したという。瀬田川に臨み、甲賀・田上(たなかみ)からの材木を奈良まで運ぶ際、途中、石山に石山院と称する役所を建てて監督したのが、石山寺の起源とされる。しかし749(天平勝宝元)年の開創ともいわれ、開創期の歴史についてはまだ明らかではない。761(天平宝字5)年から増改築に着手し、翌762(天平宝字6)年には、本堂・鐘楼などが完成した。
東大寺完成後は別院の華厳宗道場として寺勢を誇った。平安の密教隆盛の中で、菅原道真の孫淳祐(しゅんにゅう)により真言密教道場として中興。朝廷の信望も得て、参詣参籠が相次いだ。藤原一門の栄華の陰で不遇失意の貴族が来世を願ったり、悲恋の痛手を胸にしての参籠も少なくなく、一方では都と異なる湖国の風情の中に船を浮かべるなど物見遊山を兼ねた石山詣も行われ、平安文学*の格好の舞台となった。その後、頼朝の寄進や足利将軍の豪勢な参詣などが話題となり、戦国争乱の戦場にもなる。信長の兵火で旧態を失うが、淀君や徳川氏の寄進でほぼ現在の寺観となる。
東大門(国指定重要文化財)*をくぐると参道が伸び、キリシマツツジ(石山ツツジとも呼ばれる)・モミジ・サクラなどを季節ごとに観賞できる。急な階段を登り詰めた正面に、寺名の由来となった巨大な硅灰石(けいかいせき)(天然記念物)の奇岩怪石がある。その左手が本堂(国宝)*、本尊は如意輪観世音菩薩(重要文化財)で、ほかに木造不動明王坐像(重要文化財)などがある。本堂の横から石段を登ったところが多宝塔(国宝)、多宝塔から石段をくだったところにある鐘楼*(重要文化財)は、多宝塔と同じく頼朝の寄進とされる。多宝塔後方の高台には、月見亭が崖を乗り出して立つ。ここからの月の眺めは格別で、近江八景の一つ「石山秋月」として知られる。境内にはこのほか、豊浄殿*、経蔵*、御影堂*など見どころが多い。
『石山寺縁起』によれば、747(天平19)年、聖武天皇が東大寺造営の際、大仏鋳造用の黄金発掘の祈願のため良弁(ろうべん)*が開創したという。瀬田川に臨み、甲賀・田上(たなかみ)からの材木を奈良まで運ぶ際、途中、石山に石山院と称する役所を建てて監督したのが、石山寺の起源とされる。しかし749(天平勝宝元)年の開創ともいわれ、開創期の歴史についてはまだ明らかではない。761(天平宝字5)年から増改築に着手し、翌762(天平宝字6)年には、本堂・鐘楼などが完成した。
東大寺完成後は別院の華厳宗道場として寺勢を誇った。平安の密教隆盛の中で、菅原道真の孫淳祐(しゅんにゅう)により真言密教道場として中興。朝廷の信望も得て、参詣参籠が相次いだ。藤原一門の栄華の陰で不遇失意の貴族が来世を願ったり、悲恋の痛手を胸にしての参籠も少なくなく、一方では都と異なる湖国の風情の中に船を浮かべるなど物見遊山を兼ねた石山詣も行われ、平安文学*の格好の舞台となった。その後、頼朝の寄進や足利将軍の豪勢な参詣などが話題となり、戦国争乱の戦場にもなる。信長の兵火で旧態を失うが、淀君や徳川氏の寄進でほぼ現在の寺観となる。

みどころ
サクラが咲き、モミジが紅葉する頃、瀬田唐橋から、瀬田川沿いに歩いて、石山寺に行くのをすすめたい。石山寺は、別名「花の寺」と言われるように、東大門からの参道はキリシマツツジ(石山ツツジと呼ばれる)・モミジ・サクラなどを季節ごとに観賞できる。このほか、境内にはウメなど様々な草花がみられる。
硅灰石は、噴出した溶岩が黒っぽくそのまま固まったように、様々な形とその大きさに驚かされる。境内各所に露出し、特に本堂東側に著しい。石灰石が花崗岩の墳出により熱変化した岩脈で、色は黒灰色、波状の層が見える。古来霊石として信仰され、石山の名もこの奇岩に由来し、境内の諸堂宇や季節の花によく調和している。
多宝塔は国宝で、1194(建久5)年に源頼朝が寄進した我が国最古の多宝塔。高さ約17m、1階が方形で、2階が円形の外観を示す。屋根は宝形造で、軒の描く曲線美と調和して、均整美と安定感をあわせもつ傑作。内陣は着色板絵の装飾画で飾られ、中央に大日如来を安置する。郵便切手の図柄にもなっている。特別の許可がない限りは内部に入れない。多宝塔の西側には頼朝の供養塔や石造宝塔がある。
月見亭は、多宝塔の東に、眼下に瀬田川を見下ろして立つ。北は瀬田唐橋、正面から南へ三上山(みかみやま)・太神山(たなかみやま)などの山々を見渡す展望地で、古来月見の宴が催され、近江八景の一つ石山秋月を楽しんだところである。
硅灰石は、噴出した溶岩が黒っぽくそのまま固まったように、様々な形とその大きさに驚かされる。境内各所に露出し、特に本堂東側に著しい。石灰石が花崗岩の墳出により熱変化した岩脈で、色は黒灰色、波状の層が見える。古来霊石として信仰され、石山の名もこの奇岩に由来し、境内の諸堂宇や季節の花によく調和している。
多宝塔は国宝で、1194(建久5)年に源頼朝が寄進した我が国最古の多宝塔。高さ約17m、1階が方形で、2階が円形の外観を示す。屋根は宝形造で、軒の描く曲線美と調和して、均整美と安定感をあわせもつ傑作。内陣は着色板絵の装飾画で飾られ、中央に大日如来を安置する。郵便切手の図柄にもなっている。特別の許可がない限りは内部に入れない。多宝塔の西側には頼朝の供養塔や石造宝塔がある。
月見亭は、多宝塔の東に、眼下に瀬田川を見下ろして立つ。北は瀬田唐橋、正面から南へ三上山(みかみやま)・太神山(たなかみやま)などの山々を見渡す展望地で、古来月見の宴が催され、近江八景の一つ石山秋月を楽しんだところである。

補足情報
*東大門(仁王門):石山寺と書いた大提燈を掲げる山門で、入母屋造、瓦葺の八脚門。1190(建久元)年に源頼朝が寄進、慶長年間に淀殿の寄進により、新築に近い大修理がなされたと考えられている。左右に運慶・湛慶作の仁王像を配する。門からは石山ツツジの参道が境内へとつづいている。
*本堂(観音堂):境内の西奥にある。国宝。県内最古の木造建築で、総ヒノキ造り。本尊は高さ約3mの如意輪観世音菩薩(重要文化財)、ほかに木造不動明王坐像(重要文化財)がある。檜皮葺・寄棟造の大きな屋根を持つ。外観は1堂のようだが、正堂(内陣)と礼堂(外陣)とが幅1間の相の間でつながれている。巨大な硅灰石の岩盤の上に立ち、内陣は1096(永長元)年の再建で、岩盤上に立つ本尊を岩ごと厨子でおおって安置する。外陣は1602(慶長7)年、淀君の寄進により建立された。外陣は急な斜面に建てられ、懸崖造になっている。
*鐘楼:重要文化財。重層袴腰で入母屋造りで檜皮葺の屋根など、均整のとれた美しい建物。鐘は鎌倉時代の初期に源頼朝が寄進したものと伝わり、1月1日の除夜の鐘、8月15日の平和の鐘の際には参拝者も撞(つ)くことができる。
*豊浄殿:宝物館。毎年春と秋に開催される「石山寺と紫式部展」では、石山寺に伝わる宝物と紫式部や源氏物語を題材とした美術品などを展示する。有料。
*経蔵:本堂の北東に立つ。床下吹き抜けの校倉(あぜくら)造で、かつては石山寺一切経4644帖や校倉聖教を蔵した。一切経とは奈良時代から奉納されてきた膨大な写経群で、紙背文書には貴重な史料が多い。当時は紙が貴重品で、いろいろな紙の裏を利用して写経し、奉納された。中には国宝に指定された平安時代の戸籍「周防國玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻」など、経文とは別に紙背自体にも価値がある。
*御影堂(みえどう):本堂東の広場にある。方形で屋根は単層桧皮葺の小建築。良弁僧正、弘法大師、淳祐内供像を安置し、御影供が行われる。
*良弁:689~773 奈良時代の僧。東大寺の建立に尽くし、初代の別当となり、東大寺開山と仰がれた。近江の金勝山、阿星山を中心に仏教文化の花を咲かせ、常楽寺、長寿寺、金勝寺は良弁の開山である。
*平安文学:文学の寺でもある石山らしく、本堂内に紫式部*が、新しい物語の祈念のために「源氏の間」に七日間参籠し十五夜の月を眺めて『源氏物語』の構想を練ったと伝えられ、中秋名月に秋月祭が行われる。源氏の間は外陣と内陣に挾まれた花頭窓の部屋で、紫式部と侍女の人形が置かれている。境内奥の源氏苑の一角に紫式部像、多宝塔に行く手前に鎌倉時代につくられた紫式部の供養塔がある。文学面からは、更級日記の著者菅原孝標の娘も石山寺に詣でている。枕草子にも石山寺が登場する。
*本堂(観音堂):境内の西奥にある。国宝。県内最古の木造建築で、総ヒノキ造り。本尊は高さ約3mの如意輪観世音菩薩(重要文化財)、ほかに木造不動明王坐像(重要文化財)がある。檜皮葺・寄棟造の大きな屋根を持つ。外観は1堂のようだが、正堂(内陣)と礼堂(外陣)とが幅1間の相の間でつながれている。巨大な硅灰石の岩盤の上に立ち、内陣は1096(永長元)年の再建で、岩盤上に立つ本尊を岩ごと厨子でおおって安置する。外陣は1602(慶長7)年、淀君の寄進により建立された。外陣は急な斜面に建てられ、懸崖造になっている。
*鐘楼:重要文化財。重層袴腰で入母屋造りで檜皮葺の屋根など、均整のとれた美しい建物。鐘は鎌倉時代の初期に源頼朝が寄進したものと伝わり、1月1日の除夜の鐘、8月15日の平和の鐘の際には参拝者も撞(つ)くことができる。
*豊浄殿:宝物館。毎年春と秋に開催される「石山寺と紫式部展」では、石山寺に伝わる宝物と紫式部や源氏物語を題材とした美術品などを展示する。有料。
*経蔵:本堂の北東に立つ。床下吹き抜けの校倉(あぜくら)造で、かつては石山寺一切経4644帖や校倉聖教を蔵した。一切経とは奈良時代から奉納されてきた膨大な写経群で、紙背文書には貴重な史料が多い。当時は紙が貴重品で、いろいろな紙の裏を利用して写経し、奉納された。中には国宝に指定された平安時代の戸籍「周防國玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻」など、経文とは別に紙背自体にも価値がある。
*御影堂(みえどう):本堂東の広場にある。方形で屋根は単層桧皮葺の小建築。良弁僧正、弘法大師、淳祐内供像を安置し、御影供が行われる。
*良弁:689~773 奈良時代の僧。東大寺の建立に尽くし、初代の別当となり、東大寺開山と仰がれた。近江の金勝山、阿星山を中心に仏教文化の花を咲かせ、常楽寺、長寿寺、金勝寺は良弁の開山である。
*平安文学:文学の寺でもある石山らしく、本堂内に紫式部*が、新しい物語の祈念のために「源氏の間」に七日間参籠し十五夜の月を眺めて『源氏物語』の構想を練ったと伝えられ、中秋名月に秋月祭が行われる。源氏の間は外陣と内陣に挾まれた花頭窓の部屋で、紫式部と侍女の人形が置かれている。境内奥の源氏苑の一角に紫式部像、多宝塔に行く手前に鎌倉時代につくられた紫式部の供養塔がある。文学面からは、更級日記の著者菅原孝標の娘も石山寺に詣でている。枕草子にも石山寺が登場する。
関連リンク | 大本山 石山寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
大本山 石山寺(WEBサイト) 滋賀・びわ湖 観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー)(WEBサイト)びわこ 『滋賀県の歴史散歩』滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社 『石山寺の歩き方』資料 |
2025年04月現在
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