西教寺さいきょうじ

京阪石山坂本線坂本比叡山口駅の北西約1.5km、比叡山の東麓に広大な寺地を占める天台真盛(しんせい)宗の総本山。
 聖徳太子が恩師である高麗僧の恵慈*、恵聡のために創建したと伝えられている。良源(慈恵大師)*が天台の念仏道場とし、源信(恵心僧都)*も入寺し、次第に栄えるようになった。1486(文明18)年、真盛(しんせい)*が堂塔と教法を再興した。真盛は比叡山で20年余修行した高僧で、当時は応仁の戦乱の世であったため、称名念仏と戒律で世を救済しようとした。以後、西教寺は戒称二門(戒律を重んじ、念仏を称える)の道場となり、全国に400余りある末寺を有する総本山となった。
 総門をくぐると緩やかな上り坂があり左右に塔頭寺院が並び、奥に勅使門・宗祖大師殿・本堂(国指定重要文化財)*・客殿(国指定重要文化財)*・大本坊・鐘楼堂・書院などの大堂宇が建っている。本堂は紀州徳川家による寄進によるもので、客殿は通称桃山御殿と呼ばれ伏見城の遺構である。客殿西側にある庭は江戸時代に作庭家として名を馳せた小堀遠州作である。
 比叡山焼討ち後、明智光秀が復興に力を尽くしたことから、明智光秀と妻煕子・一族の墓地がある。また明智光秀資料室には、明智光秀ゆかりの遺品などが展示されている。境内には宿泊施設である宿坊研修道場が併設されている。
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みどころ

サクラと紅葉が美しい寺として知られている。特に総門から約150m続く参道はサクラやモミジ、ツツジが植えられており四季折々風情がある。
 比叡山では神の使いといわれている猿にまつわる伝説が西教寺にはあり、木像や屋根瓦など境内のあらゆるところで猿を見ることができる。
 宗祖大師殿にある唐門から望む琵琶湖が絵画のような美しさで知られている。対岸には近江富士(三上山)も見ることができる。
 客殿北側の回廊にある阿弥陀二十五菩薩石仏群は、1584(天正12)年、富田民部進が幼くして失った娘の供養のために奉納した石仏である。手に楽器をたずさえ、極楽浄土から娘を迎えにきた姿で、親の悲しみや愛情に心を打つ。西教寺では今なお不断念仏の伝統が受け継がれ、毎日幽寂な境内にしみ入るように念仏を唱える鉦の音が響き渡る。
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補足情報

*恵慈:7世紀の高麗の僧。595(推古3)年に来日して聖徳太子の師となり、百済から来日した恵聡と共に「三宝の棟梁」と称された。その事績は伝説的だが、聖徳太子と親交があり、太子の『三経義疏』制作事業に協力し、『法華経』について問答したり、帰国時に『三経義疏』を持ち帰ったという。
*良源(慈恵大師):912(延喜12)~985(永観3)年。平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)、一般には元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)で、比叡山延暦寺の中興の祖と仰がれる。中世以降は「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
*源信(恵心僧都):942(天慶5)~1017(寛仁元)年。天台宗の僧で恵心僧都とも言われる。『往生要集』を著わし、浄土信仰に大きな影響を与えた。
*真盛:1443(嘉吉3)~1495(明応4)年。戦国時代の天台宗の僧。叡山西塔の慶秀に師事し、天台宗の教学を学んだ。その後、黒谷青龍寺に隠棲し、称名念仏と戒律の一致を唱えた。文明18(1486)年に西教寺に入り、西教寺を再興して、天台宗真盛派の本寺とした。
*本堂:総欅(けやき)造、桁行7間、梁間5間の入母屋造の壮大な建築物で、1731(享保16)年に改築されている。本尊は木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)で、定朝の様式をもつ平安時代の高さ約2.8mの大仏で、後陣の木造聖観音立像(国指定重要文化財)も平安時代の作である。
*客殿:1598(慶長3)年に建造された柿葺(こけらぶき)書院造で、伏見城の遺構といわれる。内部は安土桃山時代の狩野派の手になる襖絵や杉戸で飾られている。中央奥の仏間厨子内に安置されているのは京都岡崎法勝寺(ほつしようじ)の木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)である。高さ約91cm、漆箔押、平安末期の作。
関連リンク 西教寺(WEBサイト)
参考文献 西教寺(WEBサイト)
滋賀・びわ湖 観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー)(WEBサイト)びわこ
BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE(公益社団法人びわ湖大津観光協会)(WEBサイト)
『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社
『西教寺』資料

2025年04月現在

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