比叡山延暦寺
大津市と京都市に属する境界に位置する。両市から様々な交通手段を利用して、延暦寺まで容易に達することができる。比叡山には、延暦寺という名称の個別の寺院はない。延暦寺には133の堂宇が存在するが、その位置によって大きく、東塔、西塔、横川(よかわ)の3つの地域に分けられ、3地域を総合して延暦寺と呼ぶ。寺域も区切るのがむずかしいため、「比叡山延暦寺」と呼ぶのが、もっとも相応しい。比叡山脈の主峰を大比叡ケ岳と言い標高848.3mで、四明ケ岳は10mほど低く、この他、釈迦ケ岳、水井山が連なり、これらの峰々を含めて比叡山と称する。比叡山延暦寺の伽藍は、650m前後の標高点を占めている。1994(平成6)年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
[延暦寺の歴史]比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、歴史上、南都興福寺(奈良市)と並び、北嶺といわれてきた。最澄が近江国分寺行表の下で得度し、奈良東大寺戒壇院で受戒した後に比叡山にのぼり、785(延暦4)、山上に一乗止観院を建てたことに始まる。その後、最澄は804(延暦23)年に唐に渡り、翌年帰国して天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂と改め、823(弘仁14)年、開基の年号をとって延暦寺と称することを勅許された。これ以降、年号を寺名にする寺が出てくるが、延暦寺が最初である。桓武天皇の勅願によって、鎮護国家の祈禱道場となり、京都御所の鬼門を守る寺として、不動の位置を得て、多くの名僧を輩出した。一方、争いもあり、園城寺との争いでは、堂宇を焼き、再建することを繰り返してきた。興福寺との僧兵による争いや、僧兵たちが日吉大社の神輿をかついで強訴を行ったことについて、白河法皇は「賀茂川ノ水、双六ノ賽、山法師ハ、是レ朕ガママニハナラヌ」と嘆いた。この山法師とは延暦寺の僧兵を指す。鎌倉仏教の宗祖となる、法然、親鸞、日蓮、道元、栄西ら、すべて出発は延暦寺に始まった。1570(元亀元)年の姉川の戦いの後、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭う。浅井・朝倉氏に味方したと、信長は火を放ち、数千人の僧侶をはじめとする人々を焼き殺したといわれている。その後、延暦寺は豊臣秀吉・徳川家康によって復興された。
[東塔]根本中堂*があり、延暦寺の中心地域である。根本中堂の三方を廻廊(国指定重要文化財)が囲んでいる。内部は天台様式*で、厨子の前に、1200年以上も灯し続けられている「不滅の法灯」がある。根本中堂の正面石段の上に文珠楼があり、背後には大講堂(国指定重要文化財)がある。大講堂は1956(昭和31)年に焼失、その後、山麓の讃仏堂を移築したものである。本尊は木造大日如来坐像。ここで、天台宗での重要な法要である法華大会(ほっけだいえ)・広学竪義(りゅうぎ)が行われる。大講堂から西に行くと戒壇院*(国指定重要文化財)である。その西にある法華総持院は、天台密教の根本道場として、862(貞観4)年に完成。1435(永享7)年に炎上し、そのままになっていたのを、1977(昭和52)年に再建された。ケーブル延暦寺駅から南へ約1km降りたところが、千日回峰行の中心地、無動寺谷である。中心は明王堂で、木造不動明王二童子像(国指定重要文化財)を祀る。法華総持院から西塔方向にいくと、山王院に至る。ここから坂を下りると、最澄の御廟である浄土院に着く。ここでは、12年山をおりない籠山を行い、最澄が生きているように仕える修行「侍真制(じしんせい)」が行われている。掃除地獄ともいわれ、「1に掃除、2に音声(おんじょう)、3に学問」という厳しい修行の場である。
[西塔]椿堂よりから西が西塔地域。すぐにある常行堂及び法華堂(国指定重要文化財)は、下をくぐれる廊下(附指定で国の重要文化財)でつながっており、前後にかつぐ荷物のようにみえるので「弁慶のにない堂」と呼ばれている。この2堂で四種三昧行という苦行が行われる。廊下をくぐると恵亮堂がある。9世紀に皇太子の地位を争った惟人(これひと)親王(後の清和天皇)のために祈祷した恵亮をまつったもの。石段の横を左に進むと、比叡山唯一の古石仏で光背に多くの梵字を刻んだ弥勒像がある。石段の下が西塔中心の転法輪堂(釈迦堂、国指定重要文化財)*である。さらに左に進むと青銅製の相輪橖(とう)(国指定重要文化財)があり、さらにその先を1kmほど行くと別所黒谷へ出るが、途中には室町時代の瑠璃堂(国指定重要文化財)がある。黒谷には良源の開基の青龍寺があり、木造聖観音菩薩像を本尊とし、鎌倉時代の「弘安九(1286)年」銘をもつ木造慈恵大師坐像(国指定重要文化財)や平安時代作の木造維摩居士坐像(国指定重要文化財)が安置されている。
[横川]最澄の教えにしたがって円仁が開いたところである。奥比叡ドライブウェイの横川駐車場からは近い。まず目につく朱色の建物は根本如法塔*で昭和時代に再建された。横川中堂は、848(嘉祥元)年に聖観音像と毘沙門天像を安置して円仁が建てたが、信長の焼討ちで焼失し、1604(慶長9)年豊臣秀頼によって再建された。しかし1942(昭和17)年の落雷により再び焼失、1971(昭和46)年に再建された。本尊の木造聖観音立像(国指定重要文化財)は、度重なる火災の中、難を逃れて当時の姿を保っている。鐘楼に向かい左手に四季講堂がある。967(康保4)年から、四季に法華経の論議法要が行われたので、この名がある。四季講堂から200mほど下ると、慈恵大師御廟があり、ここだけ御廟を「みみょう」と読み、比叡山三魔所の1つ*とされる。御廟から行院の前に戻って坂をおりると、大きな日蓮の銅像があり、日蓮上人旧跡の定光院になる。さらに坂をおりると、仰木(大津市)になる。
[延暦寺の歴史]比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、歴史上、南都興福寺(奈良市)と並び、北嶺といわれてきた。最澄が近江国分寺行表の下で得度し、奈良東大寺戒壇院で受戒した後に比叡山にのぼり、785(延暦4)、山上に一乗止観院を建てたことに始まる。その後、最澄は804(延暦23)年に唐に渡り、翌年帰国して天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂と改め、823(弘仁14)年、開基の年号をとって延暦寺と称することを勅許された。これ以降、年号を寺名にする寺が出てくるが、延暦寺が最初である。桓武天皇の勅願によって、鎮護国家の祈禱道場となり、京都御所の鬼門を守る寺として、不動の位置を得て、多くの名僧を輩出した。一方、争いもあり、園城寺との争いでは、堂宇を焼き、再建することを繰り返してきた。興福寺との僧兵による争いや、僧兵たちが日吉大社の神輿をかついで強訴を行ったことについて、白河法皇は「賀茂川ノ水、双六ノ賽、山法師ハ、是レ朕ガママニハナラヌ」と嘆いた。この山法師とは延暦寺の僧兵を指す。鎌倉仏教の宗祖となる、法然、親鸞、日蓮、道元、栄西ら、すべて出発は延暦寺に始まった。1570(元亀元)年の姉川の戦いの後、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭う。浅井・朝倉氏に味方したと、信長は火を放ち、数千人の僧侶をはじめとする人々を焼き殺したといわれている。その後、延暦寺は豊臣秀吉・徳川家康によって復興された。
[東塔]根本中堂*があり、延暦寺の中心地域である。根本中堂の三方を廻廊(国指定重要文化財)が囲んでいる。内部は天台様式*で、厨子の前に、1200年以上も灯し続けられている「不滅の法灯」がある。根本中堂の正面石段の上に文珠楼があり、背後には大講堂(国指定重要文化財)がある。大講堂は1956(昭和31)年に焼失、その後、山麓の讃仏堂を移築したものである。本尊は木造大日如来坐像。ここで、天台宗での重要な法要である法華大会(ほっけだいえ)・広学竪義(りゅうぎ)が行われる。大講堂から西に行くと戒壇院*(国指定重要文化財)である。その西にある法華総持院は、天台密教の根本道場として、862(貞観4)年に完成。1435(永享7)年に炎上し、そのままになっていたのを、1977(昭和52)年に再建された。ケーブル延暦寺駅から南へ約1km降りたところが、千日回峰行の中心地、無動寺谷である。中心は明王堂で、木造不動明王二童子像(国指定重要文化財)を祀る。法華総持院から西塔方向にいくと、山王院に至る。ここから坂を下りると、最澄の御廟である浄土院に着く。ここでは、12年山をおりない籠山を行い、最澄が生きているように仕える修行「侍真制(じしんせい)」が行われている。掃除地獄ともいわれ、「1に掃除、2に音声(おんじょう)、3に学問」という厳しい修行の場である。
[西塔]椿堂よりから西が西塔地域。すぐにある常行堂及び法華堂(国指定重要文化財)は、下をくぐれる廊下(附指定で国の重要文化財)でつながっており、前後にかつぐ荷物のようにみえるので「弁慶のにない堂」と呼ばれている。この2堂で四種三昧行という苦行が行われる。廊下をくぐると恵亮堂がある。9世紀に皇太子の地位を争った惟人(これひと)親王(後の清和天皇)のために祈祷した恵亮をまつったもの。石段の横を左に進むと、比叡山唯一の古石仏で光背に多くの梵字を刻んだ弥勒像がある。石段の下が西塔中心の転法輪堂(釈迦堂、国指定重要文化財)*である。さらに左に進むと青銅製の相輪橖(とう)(国指定重要文化財)があり、さらにその先を1kmほど行くと別所黒谷へ出るが、途中には室町時代の瑠璃堂(国指定重要文化財)がある。黒谷には良源の開基の青龍寺があり、木造聖観音菩薩像を本尊とし、鎌倉時代の「弘安九(1286)年」銘をもつ木造慈恵大師坐像(国指定重要文化財)や平安時代作の木造維摩居士坐像(国指定重要文化財)が安置されている。
[横川]最澄の教えにしたがって円仁が開いたところである。奥比叡ドライブウェイの横川駐車場からは近い。まず目につく朱色の建物は根本如法塔*で昭和時代に再建された。横川中堂は、848(嘉祥元)年に聖観音像と毘沙門天像を安置して円仁が建てたが、信長の焼討ちで焼失し、1604(慶長9)年豊臣秀頼によって再建された。しかし1942(昭和17)年の落雷により再び焼失、1971(昭和46)年に再建された。本尊の木造聖観音立像(国指定重要文化財)は、度重なる火災の中、難を逃れて当時の姿を保っている。鐘楼に向かい左手に四季講堂がある。967(康保4)年から、四季に法華経の論議法要が行われたので、この名がある。四季講堂から200mほど下ると、慈恵大師御廟があり、ここだけ御廟を「みみょう」と読み、比叡山三魔所の1つ*とされる。御廟から行院の前に戻って坂をおりると、大きな日蓮の銅像があり、日蓮上人旧跡の定光院になる。さらに坂をおりると、仰木(大津市)になる。

みどころ
様々な交通手段を使って、比叡山に行くことができる。大津市側からはJR湖西線比叡山坂本駅からバス、京阪電鉄石山坂本線・京津線びわ湖浜大津駅からバスあるいは坂本比叡山口乗り換え比叡山鉄道比叡山鉄道線ケーブル。一方京都市側からは、JR東海道本線京都駅・三条京阪・京阪出町柳からバス、叡山電鉄叡山線比叡山口乗り換え京福電鉄叡山ケーブル・ロープウェイで、延暦寺に到達することができる。そのほかに車であれば、比叡山ドライブウェイ、奥比叡ドライブウェイを利用するのがよいだろう。
境内で、東塔・西塔・横川をむすぶ路線バスが30分に1本運行されている。有料で、当日であれば何度でも利用できる1日券を購入すると便利だろう。
参拝者に人気があるのが、「不滅の法灯」である。最澄が灯した火を現在まで伝えるが、織田信長の焼き討ちによって一度途絶えている。しかしそのときでも、それ以前に分火してあった山形市立石寺から再び分火して、不滅の状態は続くことになった。現在ではこの火は、かわらけに入れられた菜種油にヤマブキの芯をひたし、芯による毛細管現象を利用して、火を灯しつづけている。
テレビなどで放映されて、感動するのが千日回峰行である。満行(まんぎょう)を迎えるまで、自身のけがや病気はいうまでもなく、親の死に目にも、山をおりることや休むことは許されず、7年間で約38,000kmを歩く過酷な修行である。満行を迎えると、大行満大阿闍梨(だいあじゃり)の位を与えられるが、戦後、達成したのは14人のみである。
境内で、東塔・西塔・横川をむすぶ路線バスが30分に1本運行されている。有料で、当日であれば何度でも利用できる1日券を購入すると便利だろう。
参拝者に人気があるのが、「不滅の法灯」である。最澄が灯した火を現在まで伝えるが、織田信長の焼き討ちによって一度途絶えている。しかしそのときでも、それ以前に分火してあった山形市立石寺から再び分火して、不滅の状態は続くことになった。現在ではこの火は、かわらけに入れられた菜種油にヤマブキの芯をひたし、芯による毛細管現象を利用して、火を灯しつづけている。
テレビなどで放映されて、感動するのが千日回峰行である。満行(まんぎょう)を迎えるまで、自身のけがや病気はいうまでもなく、親の死に目にも、山をおりることや休むことは許されず、7年間で約38,000kmを歩く過酷な修行である。満行を迎えると、大行満大阿闍梨(だいあじゃり)の位を与えられるが、戦後、達成したのは14人のみである。

補足情報
*根本中堂:桁行十一間、梁間六間の入母屋造で銅板葺き、全国3番目に大きい木造建築。2016 年から2027 年(予定)の大改修中は、「修学ステージ」から工事の様子が見学できる。国宝・重文改修ならではの珍しい作業も行われており、普段目することのない貴重な光景を、屋根の高さから間近で見ることができる。
*天台様式:人々がすわる外陣(げじん)が高く、一段と低い中陣は天皇の御座所で、中央の本尊と同じ高さを保つ大きな厨子がある。
*戒壇院:東大寺戒壇院以外に、大乗戒壇をつくる勅許はなかなかおりず、最澄のたいへんな苦労もあった、828(天長5)年、死後7日目にようやく許されて建てられた。
*転法輪堂:室町時代の和様建築で、1347(貞和3)年頃建立された三井寺の弥勒堂を、信長による焼き討ち後、1595(文禄4)年、秀吉の命で移築したもの。内部は天台様式、本尊は、鎌倉時代作の木造釈迦如来立像(国指定重要文化財)である。
*根本如法塔:円仁が法華経8巻6万8千余字を書写して安置した塔で、覚超が1031(長元4)年、納経の銅筒を埋めたことでも知られている。紫式部が仕えた上東門院彰子(しょうし)が寄進した金銅経箱(国宝)も発見された。
*魔所:延暦寺中興の祖とされる良源は、美男子ゆえに娘たちにつきまとわれるのを避けるため、鬼の形相をして修行したという。鬼大師の名がつき、現在でも厄除けの「鬼大師の護符」がある。良源は、比叡山の食料として、漬物を考案しており、住坊の名にちなんで定心坊といい、売店で手に入れることができる。
*天台様式:人々がすわる外陣(げじん)が高く、一段と低い中陣は天皇の御座所で、中央の本尊と同じ高さを保つ大きな厨子がある。
*戒壇院:東大寺戒壇院以外に、大乗戒壇をつくる勅許はなかなかおりず、最澄のたいへんな苦労もあった、828(天長5)年、死後7日目にようやく許されて建てられた。
*転法輪堂:室町時代の和様建築で、1347(貞和3)年頃建立された三井寺の弥勒堂を、信長による焼き討ち後、1595(文禄4)年、秀吉の命で移築したもの。内部は天台様式、本尊は、鎌倉時代作の木造釈迦如来立像(国指定重要文化財)である。
*根本如法塔:円仁が法華経8巻6万8千余字を書写して安置した塔で、覚超が1031(長元4)年、納経の銅筒を埋めたことでも知られている。紫式部が仕えた上東門院彰子(しょうし)が寄進した金銅経箱(国宝)も発見された。
*魔所:延暦寺中興の祖とされる良源は、美男子ゆえに娘たちにつきまとわれるのを避けるため、鬼の形相をして修行したという。鬼大師の名がつき、現在でも厄除けの「鬼大師の護符」がある。良源は、比叡山の食料として、漬物を考案しており、住坊の名にちなんで定心坊といい、売店で手に入れることができる。
関連リンク | 比叡山延暦寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
比叡山延暦寺(WEBサイト) 坂本観光協会(WEBサイト) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社 |
2025年04月現在
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