渡岸寺観音堂(向源寺)
JR北陸本線高月駅の北にある古刹。寺の歴史は古く、奈良時代にまでさかのぼる。736(天平8)年、奈良の都で疱瘡が流行り死者が相次いだため、聖武天皇は僧の泰澄に除災を命じた。泰澄は十一面観音像を彫り、一宇を建て、息災延命、万民豊楽を祈祷したと伝えられる。
以来、病除けの霊験あらたかな観音として信仰され、801(延暦20)年には、最澄が七堂伽藍を建立、多くの仏像を安置した。しかし、その後寺は衰退し、1570(元亀元)年、浅井・織田両軍による姉川の戦いで戦火にさらされ焼失。その際に、村人らは観音像を土中に埋めて守り、翌年には、井口弾正が一宇を建て観音像を安置したといわれる。
1888(明治21)年、宮内庁全国宝物取調局の九鬼隆一氏らが調査に訪れ、観音像を日本屈指の霊像と賞賛、1897(明治30)年に特別国宝の指定を受ける。さらに、1925(大正14)年には、平安時代の建築様式を取り入れた新たな本堂が建立された。
現在は、十一面観音像(国宝)、胎蔵大日如来坐像(重要文化財)、阿弥陀如来像(県指定)を慈雲閣(収蔵庫)に、十一面観音像(県指定)を本堂に安置。毎月17日には法要が執り行われる。また、寺の東隣に湖北地方の歴史・文化を紹介する「高月観音の里歴史民俗資料館」がある。
以来、病除けの霊験あらたかな観音として信仰され、801(延暦20)年には、最澄が七堂伽藍を建立、多くの仏像を安置した。しかし、その後寺は衰退し、1570(元亀元)年、浅井・織田両軍による姉川の戦いで戦火にさらされ焼失。その際に、村人らは観音像を土中に埋めて守り、翌年には、井口弾正が一宇を建て観音像を安置したといわれる。
1888(明治21)年、宮内庁全国宝物取調局の九鬼隆一氏らが調査に訪れ、観音像を日本屈指の霊像と賞賛、1897(明治30)年に特別国宝の指定を受ける。さらに、1925(大正14)年には、平安時代の建築様式を取り入れた新たな本堂が建立された。
現在は、十一面観音像(国宝)、胎蔵大日如来坐像(重要文化財)、阿弥陀如来像(県指定)を慈雲閣(収蔵庫)に、十一面観音像(県指定)を本堂に安置。毎月17日には法要が執り行われる。また、寺の東隣に湖北地方の歴史・文化を紹介する「高月観音の里歴史民俗資料館」がある。

みどころ
十一面観音立像は、像高195cm、頂上仏・化仏・瓔珞(ようらく)を別木とする桧一木造で、平安前期の作。頂上仏は一般の十一面観音立像が如来相であるのに対し、菩薩相で5体の化仏をもつ。左の瞋怒面(しんぬめん)、右の狗牙上出面(くげじようしゆつめん)は耳の後ろにつけられ、全体に面長の顔立ちで軽く腰を左に捻(ひね)り、長く垂らした右手が上半身を安定させている。重厚かつ密教像特有の官能的量感も備えた仏像で、全国に七体ある国宝十一面観音*の中でも屈指の美しさと評される。
また境内に、井上靖文学碑がある。1971(昭和46)年、井上靖の小説『星と祭』により、渡岸寺観音堂の十一面観音をはじめとする湖北の観音像が全国的に注目された。娘を亡くした主人公が近江の十一観音を巡ることで救われる物語で、湖国観音巡りブームの火付け役となった。
琵琶湖の北側の湖北地域は、平安時代から仏教文化が栄え、地域で守り伝えた観音菩薩像が140体以上点在し、「観音の里」と呼ばれる。
また境内に、井上靖文学碑がある。1971(昭和46)年、井上靖の小説『星と祭』により、渡岸寺観音堂の十一面観音をはじめとする湖北の観音像が全国的に注目された。娘を亡くした主人公が近江の十一観音を巡ることで救われる物語で、湖国観音巡りブームの火付け役となった。
琵琶湖の北側の湖北地域は、平安時代から仏教文化が栄え、地域で守り伝えた観音菩薩像が140体以上点在し、「観音の里」と呼ばれる。

補足情報
*国宝十一面観音七体の寺:奈良県(室生寺、法華寺、聖林寺)、大阪府(道明寺)、京都府(観音寺、六波羅蜜寺)、滋賀県(渡岸寺観音堂[向源寺所属])
関連リンク | 観音の里・高月 渡岸寺観音堂(向源寺)(WEBサイト) |
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参考文献 |
観音の里・高月 渡岸寺観音堂(向源寺)(WEBサイト) 滋賀・びわ湖 観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー)(WEBサイト)びわこ 長浜・米原を楽しむ(公益社団法人長浜観光協会)(WEBサイト) 「滋賀県の歴史散歩」滋賀県歴史散歩編集委員会 山川出版社 「いいじゃない奥びわこ」長浜市 パンフレット |
2025年04月現在
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