伊勢神宮いせじんぐう

伊勢神宮は正式には「神宮」と称し、三重県伊勢市とその周辺に鎮座する125のお社の総称である。その中心は、皇室の祖先である天照大御神をおまつりする皇大神宮(内宮)と、天照大御神の食事をつかさどり、衣食住はじめ産業の守り神である豊受大御神をおまつりする豊受大神宮(外宮)である。二つの正宮には宮域内および宮域外に14の別宮、43の摂社、24の末社、それに42の所管社がある。多くの行事には神を敬う古代の人の心がそのまま受け継がれ、神々に捧げる米・塩などの食物も自給自足で生産されつづけている。なお、伊勢神宮の宮域は約55km2、伊勢市の面積の約1/4を占めている。
 古くは磯宮とも呼ばれ、今からおよそ2000年前の第11代垂仁天皇26年に天照大御神のお告げにより伊勢の地に皇大神宮が創建され、約500年後の第21代雄略天皇22年に豊受大御神が伊勢に迎えられた。神宮が整備されたのは7世紀末、天武天皇の時代といわれ、神宮に関する事務を司る神館(かんだち)を御厨と改称、遷宮の儀も定められた。内宮禰宜には中臣氏の末を称する荒木田氏*が、外宮禰宜には伊勢国造の流れを汲む磯部氏の一統度会氏*がそれぞれ担当し、世襲する。
 神宮では年間約1,500回もの祭事*が行われているが、なかでも最も格式の高い最大のお祭りが式年遷宮というお祭りである。式年遷宮は、20年に一度すべての社殿をはじめ御装束・神宝などを新しく造り替えるお祭りで、みずみずしさを保ち、神威を高めるために行われてきた。第1回遷宮は持統天皇の世に行われ、その財源は神郡や神戸からの税、大神宮役夫工米と呼ぶ特別税によっていた。中世にはこうした財源の基礎を失い、遷宮も途絶えがちとなったが、勧進聖*の努力によって復活、江戸時代には幕府の保護を受けて運営も安定する。最近では2013(平成25)年に第62回神宮式年遷宮が行われた。皇大神宮・豊受大神宮の両正宮をはじめ、14所の別宮や宇治橋なども造り替えられる式年遷宮は、日本で最大のお祭りとされる。
 神宮へは本来、天皇以外が幣帛(へいはく)を奉ることは禁じる、私幣禁断という制度があった。次第に禁制はゆるみ、一方では一般の人の伊勢参宮*が禁止されていたわけではなく、参拝者が多くなるにつれて、祈祷を取り次ぎ、参宮の便宜を図る御師(おんし)*が現われてくる。伊勢講などの形で発達した参宮は、江戸時代に入ると急速に増加し、「おかげ参り」*、「抜け参り」*と呼ばれる伊勢参り独特の風も行われた。伊勢神符降り*の騒動で迎えた明治に再整備された神宮は、戦後、国家の手を離れ、今日に至っている。
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みどころ

神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といわれ、まず外宮から行われる。外宮の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神さまである。そのため内宮の祭典に先だってまず豊受大御神をおまつりする。こうしたお祭りの順序にならい、お伊勢参りは外宮から内宮の順にお参りするのがならわしであるが、近年は内宮だけで済ませる参拝者が大半である。かつては外宮の参拝者が内宮を上回っていたが、1955(昭和30)年を境に逆転し、ここ数年は内宮が約600万人、外宮が約300万人とほぼ2倍近い差が生じている。そのため2013(平成25)年に開催された第62回式年遷宮時には外宮に隣接して「式年遷宮記念せんぐう館」が整備されたり、伊勢市駅から外宮に通じる外宮参道の整備が進められたり、外宮周辺の魅力づくりが進められていることは特筆すべきことといえる。
 ちなみに、内宮は右側通行、外宮は左側通行。参拝前の清めの場である手水舎は、内宮が右側、外宮は左側にある。
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補足情報

*荒木田氏:一族からは江戸時代賀茂真淵の門にあって国学にすぐれた業績を残した荒木田久老(ひさおゆ)、『俳諧之連歌独吟千句』を作って俳諧の基礎を築いた荒木田守武などを輩出した。
*度会氏:度会神道とも称する伊勢神道を確立した度会行忠、建武中興の思想基盤をつくった度会家行、江戸時代に伊勢神道を復興し、古典研究に努めた出口延佳(のぶよし)らが名高い。
*勧進聖:社寺などを建立の際に募財して歩んだ僧をいうが、慶光院清順尼は、外宮の許可を得て募財、1563(永禄6)年遷宮を完成、慶光院周養尼も1585(天正13)年両宮の遷宮を行った。
*祭事:祈年祭(2月17日)・神御衣祭(5月14日、10月14日)・風日祈祭(5月14日、8月4日)・月次祭(6月15~17日、12月15~17日)・神嘗祭(10月15~17日)・新嘗祭(11月23日)・日別朝夕大御饌祭(毎日)などが執り行われる。
*伊勢参宮:伊勢神宮は「国家至貴の神」とされ、元来皇室以外の奉幣を禁じていた。しかし、平安末期になり、支持が薄れたことで神職団の一部が御師として全国に信徒網を広げる活動をはじめた。御師の勧誘によって御厨や御園を寄進する豪族が多く現れ、庶民の間にも伊勢信仰の気運が高まってくる。室町時代になると足利義満、義持など将軍自身による参宮がつづき、参宮の気風が広がる。このころ、伊勢参宮を目的にした信徒集団の伊勢講(明神講)が結成されはじめる。村ごとに講中を結び、講員は小銭を積立て、抽せんなどで選ばれた代参者を伊勢へ送り出した。俚謡に「伊勢へ七たび熊野へ三たび」と歌われたように、参宮は庶民の最大のイベントにまでなり、伊勢講は全国的に広まった。
*御師(おんし):御祈師・御詔刀師の略。「おし」ともいい、伊勢神宮のほか富士山浅間神社や出雲大社などにも認められる神職。各地の人々と師壇関係を結び、参詣を勧誘し、宿舎の提供もしたが、明治に廃された。
*おかげ参り・抜け参り:江戸時代に入って、ほぼ60年の周期で伊勢神宮への大量群参が起こる。これが「おかげ参り」である。なかでも1650(慶長3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(文政13、天保1)年の4回が大規模だった。たとえば、1650(慶安3)年3月中旬から5月の間に箱根関所を通り伊勢へ向かった民衆は1日2,500人から2,600人におよんだという。また、奉公人などが親しいもの同志しめし合せ、ひそかに参宮へ出かける「抜け参り」も流行した。
*伊勢神符降り:1867(慶応3)年8月から翌年初頭にかけて、狂乱的な民衆運動「ええじゃないか」が起こる。これは伊勢神宮の神符などが降ったことを契機にはじまり、「エエジャナイカ」などの文句を唱えて、踊り狂ったもの。今日、この運動に「おかげ参り」が大きく影響したといわれる。
関連リンク 神宮 ISE JINGU(神宮司庁)(WEBサイト)
参考文献 神宮 ISE JINGU(神宮司庁)(WEBサイト)
神社本庁(WEBサイト)
お伊勢さん125社まいり(神宮会館)(WEBサイト)
「伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味」小堀邦夫 淡交社
「永遠の聖地 伊勢神宮」千種清美 ウェッジ

2024年08月現在

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