木曽三川の下流部きそさんせんのかりゅうぶ

木曽三川とは、濃尾平野を流れるわが国有数の大河川・木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称である。流域の人々はこれらを一筋の川と同様に考え“木曽三川”と呼んで親しんできた。ただ、網状に流れる3つの川は洪水のたびに形を変え、治水の難しさは、輪中や水屋に代表されるこの地域特有の水防共同体を生んだ。輪中とは、洪水に悩まされた地域の人々が集落や耕地を守るために、その集落全体を取り囲むように堤防で囲んだ地域のことである。この地域の輪中の歴史は、洪水との闘いの歴史とも言える。
 代表的な治水工事は、江戸中期の1753(宝暦3)年、江戸幕府は薩摩藩に木曽三川の分流を目的とする工事(いわゆる宝暦治水)を命じ、大榑川洗堰工事や油島の締め切り工事などが行われた。工事は困難を極め、多くの犠牲者を出しながらも、1755(宝暦5)年に完成した。現在の千本松原*は油島の締め切り工事によって造られた堤防に日向松の苗1,000本が植えられたものである。
 さらに、明治の初期から国による河川事業が行われてきたが、今日の木曽三川の流れが完全に分けられた形態(完全分流)は、1887~1912(明治20~45)年にかけて、オランダ人技師ヨハニス・デ・レイケによるもので、わが国近代治水事業の幕開けと位置付けられている。これにより、木曽三川の下流部はほぼ現在の形となった。
 その後も伊勢湾台風など昭和三大洪水と言われる大きな洪水がたびたび発生し、多大な被害をもたらしている。
 現在、この地域には、愛知、岐阜、三重にまたがる日本一大きな国営公園・木曽三川公園が1987(昭和62)年10月に開設された。三派川地区、中央水郷地区、河口地区の3つのゾーンから構成され、木曽三川を一望できる展望タワーをシンボルとして13カ所の公園からなっている。
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みどころ

一つのみどころは、国営木曽三川公園の展望タワーから南の方向を眺めた特徴ある景観である。具体的には宝暦治水で造った「油島締切堤」に薩摩藩士が植えた日向松(ひゅうがまつ)の並木であり、「千本松原」と呼ばれている。
 またこの治水工事で活躍した二人の偉人がいる。一人は薩摩藩・総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)である。もう一人はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケであり、木曽三川治水の先駆者と呼ばれている。
 特に明治政府に招かれて1873(明治6)年に来日したデ・レーケは、ここ木曽三川の分流工事だけでなく、多くの河川・港湾の設計や工事の指導をしたことで有名である。「治水は治山にあり」という理念のもとで、山林の保護や砂防工事の重要性を説き、実行に移した。日本滞在30年、わが国の河川改修に一生を捧げたデ・レーケは、1903(明治36)年に帰国した。
 一方の平田靭負は、宝暦治水のいわば責任者で、薩摩藩の財力を恐れた徳川幕府が工事費はすべて薩摩藩負担、専門の職人も雇ってはならないという過酷な条件の下で任務を遂行した。完成後は藩に多大な負担をかけたと自害したとされている。
 現在では、鹿児島県と岐阜県が姉妹県、霧島市と海津市が姉妹都市盟約を締結している。
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補足情報

*千本松原:隣接して、宝暦治水工事の責任者、薩摩藩家老平田靱負を祭神とする治水神社がある。