松坂城跡まつさかじょうあと

JR・近鉄松阪駅から徒歩で約15分。松坂城を作ったのは、蒲生氏郷(がもううじさと)*である。織田信長、豊臣秀吉に仕え、文武に秀でた才能豊かな武将であった。1584(天正12)年に松ヶ島城主となった氏郷は、城の南約4kmにある小高い丘、四五百森(よいほのもり)に新たな城を築くことになる。1588(天正16)年に入城した氏郷は、秀吉の作った大坂から一字をもらい、城下町を「松坂」と改め、軍事・経済の要所としてのまちづくりを進めた。近江日野や伊勢大湊から有力な商人を誘致することにより、松阪にはたくさんの人々が集まった。江戸時代には、三井家*、長谷川家、小津家など多くの豪商が活躍することとなり、のちに豪商のまち・松阪と呼ばれる礎を築いた。
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みどころ

松坂城跡には現存する建物はないが、豪壮な石垣が残っており、2011(平成23)年には国指定史跡となっている。また、かつての隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長*の旧宅「鈴屋(すずのや)」が1909(明治42)年に移築され、1953(昭和28)年、国指定特別史跡となっている。なお、松坂城跡内の本居宣長記念館は、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館であり、「鈴屋(すずのや)」の管理・公開も行っている。こうした地域の偉人に関する貴重な遺産を永続的に保護管理していることはみどころの一つであろう。これは本居宣長だけでなく、北海道の名付け親・松浦武四郎*についても同様であり、松阪市民の意識レベルの高さに敬意を表するものである。
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補足情報

*蒲生氏郷:(1556~1595年)近江日野の城主の子として出生、織田信長、豊臣秀吉に仕える。1584(天正12)年に南伊勢十二万三千石の松ヶ島城主となり、やがて松坂城へ移る。1590(天正18)年、会津四十二万石へ転封、さらに九十一万石余となる。キリシタン大名で、レオと号し、正室は信長の娘。「松阪開府の祖」とされ、「氏郷まつり」などの行事も行われている。
*三井家:もと近江の武士であった越後守高安が松ヶ島へ移り、その子高俊が質屋兼酒屋となった。高俊の子高利は江戸で越後屋を開き「現金・掛値なし」の商法によって三井グループの基礎を築いた。
*本居宣長:1730(享保15)年、松坂本町(現 松阪市)の木綿問屋小津家に生まれ、幼名富之助という。19歳で養子に出るが21歳で離縁し、医学を修めるため23歳で上京した。在京中に姓を本居と改め、儒者堀景山(ほりけいざん)に漢学を学ぶうち契沖(けいちゅう)の古典研究に啓発される。28歳で帰郷し、医業を開く傍ら国学の研究を進め、「紫文要領」などを著して「もののあはれ」論を確立した。1763(宝暦13)年5月25日、敬慕する賀茂真淵と、松阪市日野町の「新上屋(しんじょうや)」で対面。真淵67歳、宣長34歳のときである。翌年から35年かけて書きあげたのが大著「古事記伝」44巻である。宣長は実証的な古典研究を通じて、日本の道としての古道を明らかにしようと試みた。思想的な面は平田篤胤らに影響を与えた。1801(寛政13・享和元)年、72歳で死去。桜を愛し、鈴の音に心を休めたという。随筆に「玉勝間」がある。
*松浦武四郎:1818(文化15)年、伊勢国須川村(現 松阪市)に生まれる。幕末から明治にかけて活躍した探検家、好古家、著述家
で、北海道の名付け親。武四郎が残した書籍、地図、日誌類などの貴重な資料は、生家にほど近い松浦武四郎記念館に収蔵・展示されている。