松平氏遺跡
                            名鉄三河線豊田市駅からバス。1994(平成6)年、高月院*・松平氏館跡*・松平城跡*・大給(おぎゅう)城跡*の4か所が一括されて、「松平氏遺跡」として、国指定史跡となった。松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、この地が発祥の地、松平郷である。伝承によると時宗の遊行僧徳阿弥が東国からこの地に入り、在原信重の娘婿になり、松平親氏(ちかうじ)を名乗り、松平城を本拠としたのが始まりと言われている。
三代目信光が安城・岡崎城などに侵攻し、西三河一帯を治め、一族発展の基礎を築いた。信光の兄信広がこの地にとどまり、松平太郎左衛門家を受け継いだ。関ケ原の戦いと大坂の陣で軍功をたてた太郎左衛門家九代尚栄(なおよし)が領地440余石を安堵された(実際にはさまざま恩典をあたえられ1万石以上の大名に準じる扱いであった)。松平太郎左衛門家はそののち、明治に至るまで代々この地に居住した。
松平氏九代目家康は徳川に改姓して、天下統一を果たした。1619(元和5)年、東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まわれてきた。
                    三代目信光が安城・岡崎城などに侵攻し、西三河一帯を治め、一族発展の基礎を築いた。信光の兄信広がこの地にとどまり、松平太郎左衛門家を受け継いだ。関ケ原の戦いと大坂の陣で軍功をたてた太郎左衛門家九代尚栄(なおよし)が領地440余石を安堵された(実際にはさまざま恩典をあたえられ1万石以上の大名に準じる扱いであった)。松平太郎左衛門家はそののち、明治に至るまで代々この地に居住した。
松平氏九代目家康は徳川に改姓して、天下統一を果たした。1619(元和5)年、東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まわれてきた。
 
                                
                                みどころ
                            松平東照宮から高月院にいたる2万m2は松平郷園地として、四季折々の花が咲く室町塀沿いの散歩道、せせらぎのある「あやめ恋路」など、整備されていて、清々しさを感じる。                        
                     
                                
                                補足情報
                            *高月院:1367(貞治6)年、寂静(じゃくじょう)寺として、見誉寛立(げんよかんりゅう)上人が建立したといわれる。1377(天授3)年に親氏が本尊阿弥陀仏を寄進、堂・塔を建立してから高月院と改め、松平氏の菩提寺となった。境内には、松平家の墓所があり、親氏、泰親、親忠*夫人の墓が並んでいる。現在の山門や本堂は、1641(寛永18)年に徳川家光の命によって建立されたと伝えられる。
*松平氏館跡(松平東照宮境内):現存する水濠や石垣は、松平尚栄によって築かれた。はじめは松平家の屋敷神の八幡宮であったが、1619(元和5)年徳川家康を合祀し、「権現様」として親しまれた。1965(昭和40)年に松平親氏が合祀され松平神社と称し、1983(昭和58)年に八幡神社松平東照宮と称するようになった。
*松平城跡:東照宮の南東500m、お城山といわれる標高298mの山頂にある。初代親氏が構築したと伝えられる室町時代の山城で、主郭と3つの曲輪からなる。東照宮から城跡へと続く自然歩道が設けられている。
*大給城跡:標高207mの山頂にある山城。主郭、大手門、虎口、櫓台などの城郭遺構がほぼ完全に残っており、随所に巨大な花崗岩や石垣を組み合わせた石積みが見られる。土豪長坂新左衛門の城を松平家3代信光が攻略し、4代親忠の次男乗元が初代城主として大給松平氏を興した。6代家乗のときに家康の関東入封にしたがってこの地を離れると、城は廃城になった。
*松平親忠:松平氏4代当主。15世紀半ばから末期、室町時代中期・戦国時代に活躍した武将。1467(応仁元)年、第一次井田野合戦で、品野や伊保の地域の軍勢を破る。1470(文明2)年、伊賀八幡宮を創建。引き続き1475(文明7)年、松平氏菩提寺の大樹寺を創建。1477(文明9)年、大恩寺の開基として同寺を中興する。1493(明応2)年、第二次井田野合戦で、上野城・寺部城・拳母城・伊保城・八草城を攻撃し勝利を収め、武名をあげる。大樹寺に墓がある。
                    *松平氏館跡(松平東照宮境内):現存する水濠や石垣は、松平尚栄によって築かれた。はじめは松平家の屋敷神の八幡宮であったが、1619(元和5)年徳川家康を合祀し、「権現様」として親しまれた。1965(昭和40)年に松平親氏が合祀され松平神社と称し、1983(昭和58)年に八幡神社松平東照宮と称するようになった。
*松平城跡:東照宮の南東500m、お城山といわれる標高298mの山頂にある。初代親氏が構築したと伝えられる室町時代の山城で、主郭と3つの曲輪からなる。東照宮から城跡へと続く自然歩道が設けられている。
*大給城跡:標高207mの山頂にある山城。主郭、大手門、虎口、櫓台などの城郭遺構がほぼ完全に残っており、随所に巨大な花崗岩や石垣を組み合わせた石積みが見られる。土豪長坂新左衛門の城を松平家3代信光が攻略し、4代親忠の次男乗元が初代城主として大給松平氏を興した。6代家乗のときに家康の関東入封にしたがってこの地を離れると、城は廃城になった。
*松平親忠:松平氏4代当主。15世紀半ばから末期、室町時代中期・戦国時代に活躍した武将。1467(応仁元)年、第一次井田野合戦で、品野や伊保の地域の軍勢を破る。1470(文明2)年、伊賀八幡宮を創建。引き続き1475(文明7)年、松平氏菩提寺の大樹寺を創建。1477(文明9)年、大恩寺の開基として同寺を中興する。1493(明応2)年、第二次井田野合戦で、上野城・寺部城・拳母城・伊保城・八草城を攻撃し勝利を収め、武名をあげる。大樹寺に墓がある。
| 関連リンク | 松平観光協会(WEBサイト) | 
|---|---|
| 参考文献 | 松平観光協会(WEBサイト) 松平氏発祥の地 松平郷(松平郷ふるさとづくり委員会)(WEBサイト) 『歴史と自然あふれる松平の里』パンフレット 『愛知県の歴史散歩 下』愛知県高等学校郷土史研究会=編 山川出版社 東照宮前の説明版『松平氏遺跡』 | 
2024年05月現在
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