香嵐渓こうらんけい

名鉄名古屋本線東岡崎駅からバス*。足助川と巴川の合流点付近、巴川が浸食してできた渓谷で、巴橋から香嵐橋までの約1kmをいう。
 1634(寛永11)年の頃、標高254mの飯森山にある香積寺の11世住職・三栄本秀和尚が、巴川沿いの参道から香積寺境内までの約400~500mの間に、カエデ、スギを植えたのが始まりとされる。その後、1923(大正12)年に、青年団に「風致向上部」を設け、町民の協力を得て、巴川両岸に約1,000本のサクラ・カエデの増殖を行った。1924(大正13)年、当時の町長深見が、飯盛山一帯を森林公園として開発することを企画し、整備に取り組む。
 1930(昭和5)年、これまで、「香積寺のモミジ」と呼んでいたが、大阪毎日新聞社社主山本彦一によって、香積寺の「香」と、飯盛山から吹き降りる嵐気の「嵐」を取って、香嵐渓と命名した。1934(昭和9)年、町民の協力を得て、第一回カエデの成木移植を行う。1935(昭和10)年、飯盛山のスギの一部を伐採して、カエデとサクラを植栽した。1937(昭和12)年に、町民の協力を得て第二回のカエデの成木移植をした。戦後になり、1950(昭和25)年、「香嵐渓もみじまつり」が挙行され、翌年には「加茂県立公園」に指定され、同11月には指定記念もみじまつりが開催された。以降、もみじまつりは今日まで継続される。1980(昭和55)年、香嵐渓命名50周年記念式において、全町各区よりカエデの植樹を行った。最近では、モミジの高齢化問題への取り組みや、スギの伐採等、環境整備に徹している。1988(昭和63)年10月から、香嵐渓のモミジにライトアップを行い、夜のモミジの探勝を可能にした。一方、この地で1985(昭和60)年にカタクリの群生を発見。1989(平成元)年から観光客に開放した。サクラより早い春の花の楽しみが加わった。現在は、ボランティア「香嵐渓を愛する会」を結成して、香嵐渓の植物の維持管理に努めている。
 香嵐渓のモミジは中京圏が中心であったが、全国に知られるようになったのは、1980(昭和55)年の三州足助屋敷*のオープンであった。従来の民俗資料館とはコンセプトが大きく異なっていたため、全国各地から視察や近県からのバス旅行で訪れて、隣接の香嵐渓を知ることとなった。いまでは、香嵐渓は京都と結んだ紅葉ツアーの人気ルートになっている。
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みどころ

渓谷の両岸には約4,000本の楓(かえで)が生い茂り、渓谷をおおう。赤・黄・橙と色を染め、清流に映える紅葉の頃は絶景である。
 「もみじ千本一度に染めて どれが綾やら錦やら」と岩槻三江作詞の香嵐渓音頭に香嵐渓はうたわれる。「まつり」の期間中、夜間、ライトアップされ、幻想的な美しさが醸し出される。香嵐渓のモミジは、自然のままでなく、江戸時代からの長い間に町民の手によって、植栽され、手入れをされ、みごとに育っていることに、思いを馳せてほしい。
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補足情報

*名鉄豊田線「浄水」駅、名鉄三河線/豊田線「豊田市」駅からもバスがある。
*三州足助屋敷:香積寺の下に「生きた民族資料館」といわれる三州足助屋敷がある。明治時代の足助地方の上層階級の家、草葺きの長屋門と母屋、二棟連結された白壁の土蔵といった建物が、かすがいなどを使わない、昔ながらの工法で建てられている。この施設で、足助地方から姿を消してしまった手仕事や暮らしを再現し、かつて使われていた道具や民具を使いこなす技術を残す。また古いものを見直して新しい時代に適応できるものを作るという取り組みをしている。ここで行われている手仕事は、わら細工、機織り、番傘張り、桶づくり、紙漉き、鍛冶屋、竹細工、木地屋、炭焼きなどであり、味噌、梅干し、寒茶、柚餅子が作られている。