(豊浜)鯛まつり(とよはま)たいまつり

鯛まつりは、知多半島の南端に近い南知多町豊浜で、毎年*、7月中・下旬の土・日曜日に行われる。木と竹で長さ12~15m、高さ約5mの鯛の骨格をつくり、それに白木綿を巻いてつくった大小の鯛5匹が若者たちにかつがれ、まち中や海を練りまわる祭りである。
 祭りの由来は、中須村(現南知多町大字豊浜中洲)の森佐兵衛が、舟形の山車を作ったことにはじまる。しかし世界的なコレラの流行で、魚も売れず、山車も売ってしまうが、1885(明治18)年ころ、祭礼に興を添えるため、はつかねずみの張りぼてを作った。そののちもさまざまな動物の張りぼてが作られたが、後に海の生きものとなり、大正末期に鯛の張りぼてとなった。「鯛まつり」の名がついたのは新しく、1970(昭和45)年である。祭りは、中洲地区と須佐地区で別々に行われる。中洲地区の祭りは中洲神社に関係のある祭りで、須佐地区の祭りは、津島神社に関係のある祭りである。
 1日目、須佐地区では4つの区の赤い鯛が、ご神体を迎えに鳥居の津島神社へ。神輿にのったご神体が一夜の宿となる「御仮屋」に向かう。御仮屋に4匹の鯛が集結し、ここで翌日まで休む。夜になると花火が夜空を飾る。
 2日目は中洲地区でも行われる。須佐地区では、午前中に船に曳航されて鯛みこしが海中遊泳、これが最も人気がある。海から上がって午後になると、御仮屋で鯛みこしと甚句を奉納。太い真竹を持った各区の露払いが汚れを清め、鯛みこしを奉納するために御仮屋へ打ち込みが始まる。鯛みこしに水しぶきを浴びせるなか、鯛みこしが動き、鯛みこし同士がぶつかり合う。奉納が終わると、鯛みこしは各集落を3時間ほどかけて、ゆっくりと伊勢音頭をうたいながら、お囃子とともに練り歩く。中洲地区では午前中にまち中を練り歩いたあと、午後になると若者が中心となり鯛みこしを担いで海中に入って練り歩き、祭りは最高潮を迎える。海から上がり、日が暮れ始めると鯛みこしに明かりが灯され、中洲神社をめざして練り歩く。鯛みこしが神社に入ると甚句を奉納し、祭りは終わる。
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みどころ

国内外でも珍しい大きな張り子の鯛をみてほしい。正面からみると、なんとも微笑ましい顔をしている。巨大な鯛は、約60名の若者によって担がれ、尾を振り、ひれをピンと張って海中を泳いでいるように練り歩く。また鯛まつりでは笛と小太鼓の音に合わせて神様に舞を奉納する「太鼓打ち」*が重要な役割を担っている。 
 昨今、豊浜の鯛祭りは、全国的にも知られてきて、外国では切手にも使用されている。
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補足情報

*令和5年度は神事のみ行われた。令和6年度は7月21日(日曜日)の一日のみ開催予定。
*太鼓打ち:太鼓打ちには小学校高学年の男の子が選ばれる。太鼓打ちは、豪華な刺繍が施された着物を着て、鮮やかな五色の帯を肩から垂れ流し、中洲は白足袋、須佐は黒足袋を履いて、鉢巻きを締める。笛と太鼓の音に合わせて優雅に舞い、太鼓を打つ。太鼓打ちの着物は180着ほどが現存しており、大切に保管されており、毎年秋に総合体育館で公開される。昭和50年代頃までは地域の名家から選ばれていた。大変名誉なこととされ、選ばれた家では京都の業者に依頼して、2年で4着の着物を作っていた。経費は自費で、新しい家1軒ほどの費用がかかったといわれている。