甚目寺(甚目寺観音)
名鉄津島線甚目寺駅の南約200m、商店街に出て、右に折れてすこし進むと、広い境内に諸堂が立つ甚目寺がある。
縁起によると本尊聖観音像は、長野善光寺の本尊とともに百済から伝来したと伝わる(伝来してから仏像は排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の争いに巻きこまれ捨てられたという、善光寺と同じ伝説が残っている)。その後、伊勢国甚目(はだめ)村(現松阪市)の漁師龍麿が漁の最中に拾いあげ、堂を建て祀ったのが始まりとされる。このとき、龍麿の姓から甚目寺と名付けられた。天智天皇の病気が、この寺での祈願によって平癒したことから、天智天皇の勅願寺となった。豊臣秀吉が160石を寄進したのをはじめ、安土桃山から江戸時代にかけて、時の権力者の庇護を受けて隆盛した。多くの店や見世物小屋・芝居小屋がでて、群集する寺であった。尾張四観音*のひとつとして北方を司る。
現在でも初観音・節分会の際には賑わいを見せ、多くの屋台がでる。境内の南に三間一戸の楼門で柿葺、入母屋造のどっしりした南大門が、東には銅板葺・切妻造、四脚門の東門(1634(寛永11)年)がそれぞれ堂々たる姿で構える。中央に本堂が立ち、参道の両側には、1627(寛永4)年に再建された木造愛染明王坐像をまつる三重塔*をはじめ護摩堂、釈迦堂などの甍が並ぶ。釈迦堂の右手には、四国八十八ケ所霊場が4県別にきちんと参拝できるようになっている。さらに本堂左手、西に漆部(ぬりべ)神社*がある。
縁起によると本尊聖観音像は、長野善光寺の本尊とともに百済から伝来したと伝わる(伝来してから仏像は排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の争いに巻きこまれ捨てられたという、善光寺と同じ伝説が残っている)。その後、伊勢国甚目(はだめ)村(現松阪市)の漁師龍麿が漁の最中に拾いあげ、堂を建て祀ったのが始まりとされる。このとき、龍麿の姓から甚目寺と名付けられた。天智天皇の病気が、この寺での祈願によって平癒したことから、天智天皇の勅願寺となった。豊臣秀吉が160石を寄進したのをはじめ、安土桃山から江戸時代にかけて、時の権力者の庇護を受けて隆盛した。多くの店や見世物小屋・芝居小屋がでて、群集する寺であった。尾張四観音*のひとつとして北方を司る。
現在でも初観音・節分会の際には賑わいを見せ、多くの屋台がでる。境内の南に三間一戸の楼門で柿葺、入母屋造のどっしりした南大門が、東には銅板葺・切妻造、四脚門の東門(1634(寛永11)年)がそれぞれ堂々たる姿で構える。中央に本堂が立ち、参道の両側には、1627(寛永4)年に再建された木造愛染明王坐像をまつる三重塔*をはじめ護摩堂、釈迦堂などの甍が並ぶ。釈迦堂の右手には、四国八十八ケ所霊場が4県別にきちんと参拝できるようになっている。さらに本堂左手、西に漆部(ぬりべ)神社*がある。

みどころ
「甚目寺観音」の寺として親しまれており、願掛け、厄除けに訪れる人たちも多い。恋愛成就など願掛けのため、思いがとおるようにということで、底のない柄杓が多くおさめられ、三重塔の入り口にかけてある。堂々たる南大門と東門、優雅な三重塔、赤の美しい本堂と諸々の建造物が引き付ける。

補足情報
*尾張四観音:龍泉寺(東)、荒子(西)、笠寺(南)、甚目寺(北)
*三重塔:高さ28mで、三重塔として全国屈指の高さ、かつ美しい。
*漆部(ぬりべ)神社:境内の左手奥にある。厄除けのほかに塗り物の祖神でもある。
*三重塔:高さ28mで、三重塔として全国屈指の高さ、かつ美しい。
*漆部(ぬりべ)神社:境内の左手奥にある。厄除けのほかに塗り物の祖神でもある。
関連リンク | 鳳凰山甚目寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
鳳凰山甚目寺(WEBサイト) あま市観光協会(WEBサイト) 愛知県の公式観光ガイドAichiNow(WEBサイト) 『愛知県の歴史散歩 上』 愛知県高等学校郷土史研究会=編 山川出版社 |
2024年03月現在
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