了仙寺りょうせんじ

伊豆急行線伊豆急下田駅から南へ約800mのところにある。開国を求め来航したアメリカのペリー提督との交渉により、1854(嘉永7)年3月に日米和親条約が横浜で締結された。
 その後、下田の了仙寺で細則につき折衝がつづき、1854年6月、日米和親条約付録協定として下田条約13カ条が結ばれた。同寺はその後も同条約に基づいて玉泉寺とともに米国人の休息所に指定された。
 了仙寺は1635(寛永12)年に第2代下田奉行・今村伝四郎正長*1により創建*2。本堂はその後火災に遭い、1826(文政9)年に再建され、間口5間奥行6間の寄棟造桟瓦葺きの建物。1945(昭和20)年に一部が破壊されたものの、条約交渉当時の建物の状態が保持保全されているという。
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みどころ

幕末の江戸幕府の外交史上重要な史跡で、当時の建物も一定程度保全保持されており、激動の時代に思いを馳せることができる。同寺の敷地内にあるMoBS(黒船ミュージアム The Museum of Black Ship 入館有料)では、日本人が描いた黒船来航の絵巻物や肉筆画・錦絵・かわら版及び長崎や横浜の南蛮人・異国人の絵、海外で出版または作成された日本についての版画や肉筆画・古地図、外交関係の報告書・資料など、約3,000点を収蔵し、順次、展示公開をしている。
 また、住職の法話として昔話「下田開国物語」を、所蔵する開国の画像資料を見ながら聞くこともできる(有料・茶菓子接待、黒船ミュージアム入館料、「開国まちあるきマップ」付き)。
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補足情報

*1 今村伝四郎正長:1588(天正16)年~1653(承応2)年。三河以来の旗本。1627(寛永4)年父重長を継いで第2代下田奉行となる。当時、下田港は船改番所が設けられた重要な寄港地で、上方から江戸に入る船は必ずこの港で取り調べを受けることが義務付けられていた。正長の在職は25年余りにわたり、1645(正保2)年、防波堤(武ケ浜波除)を築いたことでも知られ、下田の町の発展の基礎を作ったとされる。了仙寺に正長をはじめ今村家の墓がある。                                                           
*2 創建:江戸後期の『豆州志稿』によると、身延山久遠寺の末寺として開創され、開山も久遠寺の法主であったとし、「御朱印寺領十三石」と記されている。
関連リンク 了仙寺(WEBサイト)
参考文献 了仙寺(WEBサイト)
国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト)
『豆州志稿 巻之11 増訂』秋山章 著 [他] 栄樹堂 国立国会図書館デジタルコレクション
『静岡県の歴史散歩』 静岡県日本史教育研究会=編 山川出版社

2023年11月現在

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