関の刃物せきのはもの

岐阜県の中央部(中濃地方)に位置し、岐阜市に隣接する関市では、13世紀前半の鎌倉時代に、現在の九州地方もしくは鳥取県から関に移り住んできて刀を打ち始めた鍛冶(かじ)の「元重(もとしげ)*」を元祖として、刀作りが始まったと伝わる。京都と鎌倉を結ぶ東西交通の要所として栄えていたこの地は、刀作りに必要な良質の土と松炭、長良川と津保川の水に恵まれていたため、各地から多くの刀匠(とうしょう)が集まった。
 鎌倉時代末期から南北朝時代には、「正宗十哲(まさむねじってつ)*」である金重(きんじゅう)や兼氏(かねうじ)が、関鍛冶の礎を築いた。その子孫の刀匠達は、「関鍛冶七流*」を主軸にした鍛冶仲間の組織「鍛冶座(かじざ)*」を結成、統率した運営をして、刀生産地として成長していった。
 日本刀の生産地として既にあった大和(奈良県)・山城(京都府)・備前(岡山県)・相州(神奈川県)の4か所に、この地の「美濃伝(みのでん:関伝ともいう)」が加わり、後に「五箇伝(ごかでん)」と総称されるようになった。
 室町時代末期の大永・享禄年間(1521~1532年)頃に、「関の孫六(せきのまごろく)」として知られる「2代目兼元(かねもと)」が、「四方詰め(しほうづめ)*」の鍛刀法を編みだし、より頑丈な刀を作ることに成功した。16世紀後半の安土桃山時代、「折れず、曲がらず、よく切れる」関の刀は戦国武将に用いられ、名刀の一大産地として繁栄した。
 江戸時代(1603~1867年)になり、国内の戦争がなくなるにつれて刀の需要が急激に減った。刀を作る技術を応用して、一部の刀匠は包丁、鎌や鍬などを打つ農鍛冶に転じた。1876(明治9)年に「廃刀令」が出されると、かみそり・ハサミ等の日用品刃物の生産を主力にした。
 現在は、鎌倉時代から続く刀鍛冶の技術・伝統を現在の刃物産業に生かして、包丁、ナイフ、かみそり、爪切り・缶切り、ハサミなどを生産している。国内にとどまらず、「関の刃物」というブランドで世界の国々に刃物製品を輸出している。ゾーリンゲン(ドイツ)、シェフィールド(イギリス)と並ぶ刃物の大都市として有名である。
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みどころ

世界に誇る「刃物のまち」である関市中心部には、刀鍛冶や刃物に関する施設が半径100m以内に集まっている。関鍛冶の神として祀られた春日神社、伝統の技や歴史を映像や資料展示等で紹介する関鍛冶伝承館、包丁・ハサミ・爪切り・キッチン用品などがお得に買える岐阜関刃物会館、かみそりと精密刃物を1万点以上展示したフェザーミュージアムがあり、刃物の歴史とその世界にふれる「刃物ミュージアム回廊」である。
 なお関鍛冶伝承館では、兼元・兼定などの重要刀剣をはじめとする日本刀の展示に加え、10月の刃物まつりや古式日本刀鍛錬一般公開日(月に1回程度)には、刀匠が、鋼を熱して打ち、火花が飛び散って迫力ある古式日本刀鍛錬や、刀の外装を作る職人(研師、柄巻師、鞘師、白銀師)による実演が行われる。
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補足情報

*正宗十哲:鎌倉時代末期、著名な刀匠「正宗(まさむね)」の教えを相州(今の神奈川県)で受けた名工の10名のこと。
*鍛冶座:七流の本家筋が代表者となり、鍛冶仲間で自主的に運営し、刀の生産から販売までを一貫して行う組織。
*関鍛冶七流:「善定」、「奈良」、「三阿弥」、「徳永」、「得印」、「良賢」、「室屋」の流派がある。
*四方詰め:柔らかい芯鉄の四方を、硬い鉄や靭性のある刃鉄で固めた。より硬さと粘りを併せ持った強い構造になった。長船元重(おさふねもとしげ)は、南北朝時代の備前国の刀工。大蔵允と称したともいう。
*元重(もとしげ):南北朝時代の備前国の刀工である長船元重(おさふねもとしげ)とは異なる。長船元重は、日本刀史上に多大な影響を与えた貞宗の弟子の中でも特に技術力の高い3人の1人に数えられる人物(貞宗三哲)である。