岩村城いわむらじょう

恵那市の南、標高717mの城山頂上に築かれた山城で、麓の岩村藩藩主邸跡からの高低差が180mもある。
 1185(文治元)年に源頼朝の家臣、加藤景廉(かとうかげかど)により建てられたと伝わる。以後、景廉を祖とする美濃の遠山氏が代々居城とした。美濃・信濃・三河国境に位置していたので、戦国時代は武田信玄・勝頼と織田信長との攻防による争奪戦が繰り広げられた。江戸時代には岩村藩の大給松平氏(おぎゅうまつだいらうじ)*が城主(一時、一色丹羽氏が務める)となり、1873(明治6)年の廃城令による取り壊しまで長く存続していた。往時の城郭は、山頂から本丸、二の丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪などが石垣や堀切で区画して配置され、要所に櫓、掘、門が構えられていた。
 麓の岩村藩藩主邸跡には、岩村歴史資料館と民俗資料館がある。
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みどころ

天然の峻険な地形を巧みに利用した要害堅固な山城である。現在は石垣などの遺構が残る。
 麓の岩村歴史資料館から山頂の本丸までは約800mで、石畳の坂道と階段の登城道を上る。100mおきの距離表示に励まされ、随所にあるイラスト付き説明板を見ながら、往時を偲び進んで行く。茂った木々の中から累々と築かれた石垣群が出迎えてくれる。途中、畳橋、追手門を通ると、「霧ヶ井」があり、戦いのときに蛇骨を投入するとたちまち霧が湧いて城を守った井戸と伝わる。この由来から城は別名「霧ヶ城(きりがじょう)」ともよばれる。
 やがて、「六段壁(ろくだんへき)」という雛壇状に築かれた6段の壮大な石垣がある。元々は最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返したことにより、今の姿になった。岩村城の石垣の総延長は1.7kmで、石垣に使われている石の数は約4万個、三種類の石垣*が一度に見られ、大変貴重である。六段壁を登ると、山頂の本丸に到着。山頂からは、遠く御岳・木曽駒ヶ岳・恵那山を望み、眼下に城下の町並みも美しい。
 また、かつて織田信長の叔母おつやの方*が実質的な城主を務めていた歴史があり、岩村は「女城主の里」といわれる。
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補足情報

*大給松平氏(おぎゅうまつだいらうじ):大給松平氏は、松平親忠の次男松平乗元を祖とする松平氏の庶流。三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)を領したことから大給松平氏と称した。松平宗家(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名四家のほか、数多くの旗本を出した。6万石の西尾藩となったのは、1764(明和元)年に山形藩から大給松平宗家六代の乗祐が入城してのこと。大給松平氏は代々老中などの幕府の要職を務め、以来、廃藩となるまで五代続いた。
*三種類の石垣:石をほとんど加工しないで積む「野面積(のづらづみ)」、石をある程度加工して積む「打込接(うちこみはぎ)」、石を整形して隙間なく積む「切込接(きりこみはぎ)」である。
*おつやの方:生年不詳 ~1575(天正3)年。織田信定の娘で織田信長の叔母にあたる。1572(元亀3)年、城主の遠山景任が病没し、養子として迎えていた信長の五男御坊丸が幼少であったことから実質的な城主を務めた。同年、武田信玄の24将の1人、秋山虎繁が侵攻。虎繁から妻となることを条件とした無血開城を受け入れて、結婚を決意。開城後は城下町の守備などにいそしんだ。1575(天正3)年、御坊丸が信玄の元へ人質として送られたことと、岩村城がのっとられたことに激怒した信長軍に攻め込まれ、虎繁とおつやの命を守るという条件で開城。しかし、信長はこれを反故にし、夫妻は磔刑(たっけい)に処せられた。
関連リンク 岩村町観光協会(WEBサイト)
参考文献 岩村町観光協会(WEBサイト)
岐阜の旅ガイド(一般社団法人岐阜県観光連盟)(WEBサイト)
『岩村城ガイドブック』恵那市生涯学習課
『岐阜県指定史跡岩村城跡』本丸の説明板

2024年02月現在

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