松代城跡まつしろじょうあと

旧松代駅の西方にある。松代城は元々海津城と呼ばれていた城で、武田信玄*が山本勘助*に命じて築城したと伝えられている。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城のひとつとされている。1561(永禄8)年川中島合戦*では武田軍の本陣とされた。
 松代城と改名されたのは、江戸時代になってからのこと。その後明治維新まで真田氏10代の居城となった。
 現在は城址公園として整備されており、太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されている。また付近には江戸末期に城外御殿として建てられた真田邸や真田家伝来の資料を保存・展示する真田宝物館がある。
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みどころ

平成に入り整備工事が行われ、石垣、門、橋などがきれいに復元されており、正面から見ると江戸時代の面影がうかがえる。また展望台として整備された戌亥の櫓台からは、川中島の眺望がすばらしい。
 城は三方を山で囲まれ、千曲川に面する自然の地形を生かした天然の要塞で、春は桜の名所でもある。
 城だけに限らず、松代藩の文武併修の学校としての「文武学校」や幕末に城外御殿として建てられた「真田邸」、真田家伝来の資料を保存・展示する真田宝物館などが周辺に点在する。また松代には、佐久間象山*に関する歴史が刻まれている。城下町・松代をゆっくり歩きながら、歴史を学ぶ一日を楽しめるエリアでもある。(林 清)
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補足情報

*武田信玄:1521~1573年。武田信玄は、1541(天文10)年に信虎を退隠させた後、甲斐国を掌握し、隣国信濃国に進出。北信地方を除き平定したもの、上杉謙信との対決を招き、数度にわたり「川中島の合戦」を戦うことになった。その後、隣国との関係を固め、1572(元亀3)年上洛を目指し、三方ヶ原の戦いなどで徳川軍を破り三河まで達したが、持病のため伊那駒場で没した。戦国武将として名高い信玄であるが、治政においても手腕を発揮し、とくに釜無川(富士川の上流)に氾濫を抑えるために独創的な信玄堤を築き、新田の開発を積極的に行うとともに、甲州金で知られる金山の開発、商・職人集団の編成や城下町の拡充に努めた。
*山本勘助:戦国時代の武将。武田信玄の足軽大将の一人。従来は勘助の実在そのものを疑問視する意見が強かったが、近年、菅助と明記された武田晴信(信玄)書状が発見され、その実在が確かめられた。『甲陽軍鑑』には勘助の活躍が随所にみられ、そこでは武田家の信濃侵攻の軍師格として登場しているが、そのすべてが事実とは思えない点も多い。(参考:『国史大辞典』)
*川中島合戦(川中島の戦い):戦国末期、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の千曲・犀川の合流点川中島(長野県更級郡東北部)で争った戦い。1553(天門22)年から1564(永禄7)年にかけて5回交戦。うち1555(天門24)年、1561(永禄4)年が激戦で、1561(永禄4)年には謙信・信玄の一騎討ちがあったといわれる。勝敗は決しなかったが、川中島は信玄のものになった。現在、千曲川と犀川の合流する八幡原の川中島古戦場跡には「三太刀七太刀の跡」碑があり、両雄の一騎討像や首塚なども松林の中に立つ。(参考:『旺文社日本史事典 三訂版』)
*佐久間象山 : 幕末の兵学者で多くの人々に強い影響を与えた思想家でもある、松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学び江戸神田に塾を開く。蘭学・砲術に通じ、開国論を唱えたが、尊皇攘夷派によって暗殺されたといわれる。東洋の精神文化と西洋の科学知識に精通した希代の人物で門人に勝海舟・吉田松陰らがいる。
関連リンク 真田宝物館(WEBサイト)
参考文献 真田宝物館(WEBサイト)
ながの観光net(公益財団法人ながの観光コンベンションビューロー)(WEBサイト)
「長野県の歴史散歩」出川出版社

2022年09月現在

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