富士川(山梨・静岡県境周辺)ふじかわ(やまなし・しずおかけんきょうしゅうへん)

富士川はその源を山梨県と長野県の県境にある鋸岳(標高2,685m)に発し、北上したのち南東に流れを変え、八ヶ岳裾野の峡谷を左手に七里岩を見ながら甲府盆地に向かって流れ下る。さらに扇状地を形作りながら周辺の山々から流れ落ちる大武川、小武川、御勅使川、塩川など左右から支流を合わせ、甲府盆地西部を南流する。盆地の南端部で、流域内最大の支川で秩父山地の甲武信ヶ岳(標高2,475m)を水源とする笛吹川*を合流し、その少し下流から再び山間渓谷部に入り、これを抜けると富士の裾野が広がる平野部に出て、駿河湾に注ぐ。富士川源流からの総延長は約128kmあり、日本三大急流河川と言われている。
 また、笛吹川と合流する地点より上流の富士川は、淵のことを地域では釜と呼んでおり、その釜がないことから、釜無川と呼ばれるようになったと言われ、地域に親しまれている。
 流域はその大部分をフォッサマグナと呼ばれる地層で構成され、西側には日本列島を東西に分断する大断層糸魚川~静岡構造線が走っているため、極めてもろい地質構造になっており、扇状地*や天井川*が形成されやすい。そのため、かつては盆地の低地では洪水が多発していたため、釜無川、御勅使川に大規模な治水システム*がつくられており、中でも、信玄堤は、戦国武将で知られる武田信玄により1542(天文11)年の釜無川、御勅使川の大氾濫を契機に着手され、約20年の歳月をかけて完成させたと言われている。下流では江戸時代、1621(元和7)年に駿府代官古郡氏が富士川下流の治水工事に着手し、その後親子3代にわたり約50年の歳月と膨大な経費、そして治水の知恵と工夫を結集して、1674(延宝2)年に雁堤(かりがねづづみ)を完成させ、河口平野部の治水に努めた。
 また、富士川は、駿河と甲斐を結び、江戸時代には舟運*が盛んで、重要な流通路としての役割も果たしていた。
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みどころ

富士川の本支流を合わせた流域は広く、甲府盆地全体に及びみどころも多いが、釜無、富士の源・本流の中流域から下流域でのみどころを挙げるとすると、ひとつは、甲斐市にある「信玄堤公園」からの荒々しい釜無川と眼前に聳え立つ南アルプスの山並みだろう。ここでは信玄堤のいろいろな仕掛けを目の当たりにできるとともに、扇型に広がる御勅使川扇状地も遠望できる。二つ目、「富士川クラフトパークの見晴らし広場」からは、早川が富士川に合流するために、富士川に流れが波高くなることに由来するという波高島*の流れを遠望できる。三つめは身延山の「奥の院東展望台」からのキラキラと光る富士川の川筋の景観である。ちょうど、盆地から狭隘な山間部に入り、かつて舟運の難所といわれた急流を俯瞰することができる。四つめは、静岡県側の平野部に入った、東名高速道路の橋梁近く、静岡市側にある「道の駅富士川楽座」からの富士川と富士山の眺め。まさに絵にかいたような構図だが、ゆったりと流れる富士川と裾野の長い優美な姿を見せる富士山が美しい。
 落語「鰍沢」では富士川の急流を題材にしている。身延山詣での江戸の町人が鰍沢近くの山中で猟師に襲われ、逃げ所を失って、「前は 東海道岩淵へ落す急流、しかも こゝは釜が淵と申す難所でございます。お祖師が身延へ参詣に来ても鰍沢の舟には乗るなとおつしやつた、しかし こゝより外に遁れるところはない。 鉄砲で射ち殺されるかそれとも助かるか、 一かばちか 『南無妙法蓮華経』とお題目をとなへながら流れをのぞんで飛び込みました」と語り、オチに入る。このあと、町人は筏の材木に助けられ、「題目」と「材木」がオチとなる。当時、富士川の急流が江戸で落語のオチに使われるほど、広く知れ渡っていたことが分かる。
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補足情報

*笛吹川:笛吹川は西沢、東沢などの峡谷を抜け甲府盆地に入ると、盆地東部を南西方向に流れ下り、重川、日川、金川などの支流を合わせ、盆地南端で釜無川と合流し、富士川となる。上流は西沢、東沢の渓谷美で知られ、盆地内ではブドウ、モモ、ナシなどの生産地として全国的に名高い果樹園地帯を貫流している。
*大規模な治水システム:流路安定のための「出し」、河川を分流させる「将棋頭」、釜無川への合流河川のエネルギー減殺のための「信玄堤」、「聖牛」や破堤した場合の還流システムの「霞堤」などの土木工事を施工し、同時に土石、流木防御のための堤防付近での植樹、堤防守りの集落の租税免除などの対策も行った。信玄堤は、現在も甲府盆地を洪水から守っている。
*舟運:京都の豪商で、河川開削の事業家でもあった角倉了似は、甲斐からの回米輸送のため、江戸幕府より命じられて甲府盆地南端の鰍沢と駿河の河口近く岩淵間の富士川通舟の開削を行い、1607(慶長12)年に開通した。舟運のもっとも重要な役割は甲斐の回米を川下げするものであったが、甲州・信州への塩、海産物の移入する「上がり荷」も需要が高かった。そのほかにも多くの人、物産がこのルートで行き来したため、盆地南部の黒坂、青柳、鰍沢などの町は河岸(かし=川の港)としての賑わいを見せ、現在もその遺構が残る。当時、富士川を行き交った高瀬舟は、往路の鰍沢から岩淵までの約72キロメートルを半日で下ったが、復路は船に縄をつけて船頭たちが引っ張りながら遡航するので、同じ水路を上るのに4日~5日程かかったと言われている。東海道本線[1889(明治22)年]、中央本線[1903(明治36)年]、身延線[1928(昭和3)年]などの鉄道が開通するまで甲斐と駿河の流通路としての役割を果した。
*波高島:松本清張の小説「黒い樹海」では、「下部温泉がすぎてから、車窓の山は急に割れ、広い川と空とがひろがった。富士川は蒼い水をかなりな速さで流していた。汽車が速力をゆるめた。(中略)波高島の駅のすぐ裏を、富士川は流れていた。両岸の水の無い河床には白い石がきれいに埋まっていた。下流の方を見ると、両方から山裾が落ち合い、その下を汽車の白い煙が動いていた」と、波高島周辺の風景を描写している。
関連リンク 国土交通省甲府河川国道事務所(WEBサイト)
参考文献 国土交通省甲府河川国道事務所(WEBサイト)
富士川町HP(WEBサイト)
南部町HP(WEBサイト)
三遊亭円朝『三遊亭円朝全集』 Kindle版
松本清張.「黒い樹海」講談社

2024年07月現在

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