玉泉園ぎょくせんえん

兼六園の北に隣接する傾斜地を利用した上下2段の池泉回遊式庭園である。江戸初期、加賀藩士脇田直賢(わきたなおかた)*にはじまり、4代約100年かけて脇田邸に作庭されたという。下段は「水」字形の池のある本庭を中心に東庭・西庭より構成され、燈篭や飛び石が、うっそうと茂る樹林の中に配されている。上段は茶室灑雪(さいせつ)亭の露地で、茶道裏千家の祖、千仙叟(せんのせんそう)*の好みと伝えられる。玉泉園の名は2代藩主前田利長の室、玉泉院*にちなんだもの。
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みどころ

約2,370m2の園内には作庭以前から生い茂っていた巨木が見られ、金沢最古の茶室とされる「灑雪亭(さいせつてい)」や裏千家寒雲亭の写しの茶室がある。特別に兼六園から辰巳用水の分流を引いていることもあり水泉に優れ、この地方の都市部としては珍しいミズバショウが自生する。明治初期に脇田家が移住した後、数回の転売を経て西田家に渡り、長く非公開であったが、1971(昭和46)年から公開された。名勝を眺めながら食事を堪能し、昼は散策、夜はライトアップした庭園を楽しめる。「灑雪亭」で、茶道(薄茶点前)が体験できる。
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補足情報

*脇田直賢:初名は金如鉄(キム・ヨチョル)。文禄の役の際、秀吉軍宇喜田秀家の捕虜となり、幼少時は前田利長の正室(玉泉院)が養育。のち利長の家臣となり、金沢町奉行まで務めた。文芸方面にも力を発揮し、加賀の連歌の第一人者としても知られた。                                                                   *千仙叟:1622~1697年。裏千家の祖。名は宗室。宗旦の3男として生まれ、今日庵に住する。はじめ朧月庵玄室と号し、のち仙叟と改め、加賀前田家に仕えた。
*玉泉院:1574(天正2)年に織田信長の四女として生まれ、名は「永姫」。1581(天正9)年12月に越前府中(現在の福井県武生市)に入輿し、7歳で前田利長に嫁ぐ。前田利長が没すると出家し玉泉院と号し、高岡から金沢城に移り住む。1623(元和9)年2月24日に亡くなる。享年は50歳。
関連リンク 西田家庭園 玉泉園(WEBサイト)
参考文献 西田家庭園 玉泉園(WEBサイト)
金沢旅物語(金沢市観光協会)(WEBサイト)

2023年08月現在

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