金沢城かなざわじょう

浅野川と犀川にはさまれた小立野台地の北西端に位置する。面積は堀を含めて約30万㎡、最高所は本丸跡の海抜約60mで、南東へ延びる小立野台地とは百間堀によって分かれている。城内の建物は1881(明治14)年の大火で大部分を焼失し、今ではわずかに石川門などが往時の威容をとどめている。
 〔歴史〕佐久間盛政が4年間居城とした尾山城に1583(天正11)年、前田利家が入城し、高山南坊*に命じて城の修築を行った。金沢城の称もこのころに定まったといわれる。つづいて1592(文禄元)年には利家の命で2代利長が城に手を加え一応の完成をみた。その後、幾度もの火災と再建を繰り返し、1871(明治4)年には兵部省(のち陸軍省)の所管となり、戦前の第九師団司令部、戦後の進駐軍管轄の時代を経て、1950(昭和25)年以降は金沢大学の管理下に置かれた。その後、1996(平成8)年石川県が国から金沢城址を取得し、金沢城址公園として整備を開始。2001(平成13)年第1期工事により、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門が復元完了し、金沢城公園と改称された。2015(平成27)年玉泉院丸跡に玉泉院丸庭園と玉泉庵を整備。2020(令和2)年には鼠多門と鼠多門橋が復元された。
 金沢城の中核をなす二の丸御殿については、2021(令和3)年段階で一部復元の方向が示されている。
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みどころ

重要文化財の石川門は、金沢城の搦手(からめて)門(裏門)で、1788(天明8)年の再建。表門・太鼓塀・多聞櫓・菱櫓(鉄砲や矢を効果的に射るため工夫された、平面が菱形の櫓)などからなり、唐破風の出窓の床には石落としがあり、外壁を塗りこめた隠し狭間も見られる。屋根は鉛瓦葺きで、鉛の板の厚さは1.9mm。同じく重要文化財の三十間長屋は、城の南西隅にあり、長さ約48m、幅約5mの2階建て。1858(安政5)年に再建されたもので、外壁は海鼠壁で、石川門と同様、出窓や鉛瓦が施され、倉庫や防御砦としての機能を持っていた。大手堀は、城の北側に位置し、正門である大手門とその西側にある黒門を結ぶ堀。1599(慶長5)年に徳川氏への防備のために造られた。城郭周辺のほとんどの塀が埋められたが、大手堀は一度も埋め立てられたことがなく、2010(平成22)年に復元されたいもり堀とともに、水をたたえている。また、城内の石垣は規模が大きく、種類も豊富であることから、「石垣の博物館」と呼ばれる。
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補足情報

*高山南坊:1552年頃~1614年。摂津の国、高槻の城主高山右近の号。洗礼名をジュストというキリシタン大名。信長、のちに秀吉に仕え、キリシタン禁教令とともに知行を没収され、1614(慶長19)年にはマニラへ追放された。利休七哲の一人。
*2006(平成18)年日本100名城に選定された。                                        
*2008(平成20)年金沢城跡として国の史跡に指定された。                                          *石川県と金沢市は、金沢城址を中心とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産(文化遺産)への登録を目指し、「世界遺産暫定一覧表」への記載を国(文化庁)に共同提案した。
*鼠多門と鼠多門橋が復元され、旧いもり堀(現在は道路)を跨ぎ、尾山神社と直結されたことから、長町武家屋敷群から尾山神社を経て金沢城公園へ続く「加賀百万石回遊ルート」と称する観光ルートが強調されるに至った。
関連リンク 金沢城公園(金沢城・兼六園管理事務所)(WEBサイト)
参考文献 金沢城公園(金沢城・兼六園管理事務所)(WEBサイト)
金沢旅物語(金沢市観光協会)(WEBサイト)

2023年08月現在

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