山代温泉やましろおんせん

山代温泉は、加賀平野の南のはずれ、薬師山をはさんで山中温泉と背中あわせの地にある。725(神亀2)年に行基が開湯したという伝承があり、その後、10世紀後半(985~988年)に花山法皇が明覚上人を従えて北陸巡歴*のおり、この温泉に入浴、その効が優れているとして温泉寺を中興、七堂伽藍を建立したとされている。
 また、1565(永禄8)年には明智光秀*が入湯したとされ、江戸時代には共同浴場を囲んで温泉宿が升型に建てられ、街並みを形成していった。この共同浴場が「総湯」で、総湯を中心とした街並みを北陸特有の呼び方として「湯の曲輪(ゆのがわ)」という。
 現在の山代温泉にも「湯の曲輪」の形態が残り、明治時代の総湯を復元した「古総湯」*を中心に、新たに整備された「総湯」や紅殻格子で木造平屋建ての交流施設「はづちを楽堂」、旅館や商店が立ち並ぶ街並みが見られる。
 また、総湯の後側(南側)には湯守寺であり「五十音図」の創始者とされる明覚上人にちなむ「あいうえおの小径」が設けられた 「薬王院温泉寺」、機織の神、天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀る「服部神社」が鎮座している。こうした歴史ある温泉場ということなどから、明治・大正期には、与謝野鉄幹・晶子*、泉鏡花*、北大路魯山人*などの文人墨客が多く訪れている。
 なお、山代温泉は九谷焼が始められた旧九谷村に近く、「九谷焼窯跡展示館」*などもある。
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みどころ

北陸を代表する温泉だが、風光に恵まれているとはいえない。しかし、開湯1,300年という伝承のある歴史のなかで培ってきた魅力がある。藩政時代の山代温泉は、湯量が豊富なことから温泉宿にも内湯があったため、湯治に加えて娯楽的な要素をもつこととなり、湯の曲輪の宿には、地元住民だけでなく近隣の村の住民も多く訪れるようになった。それに伴い、総湯は改築され、湯の曲輪に通じる道路も商店で賑わうようになったという。
 湯の曲輪の一角にある「はづちを楽堂」は、紅殻格子、むかしながらの暖簾(のれん)など、伝統の美しさを感じさせるように整備されている。加賀市などによって行われた 「山代温泉・湯の曲輪(ゆのがわ)」の整備では、街全体が蘇生する大きな流れを創り出したデザインが高く評価され、2012(平成24)年には公益財団法人日本デザイン振興会が運営するグッドデザイン賞を2012年度に受賞した。
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補足情報

*花山法皇が明覚上人を従えて北陸巡歴:「石川県江沼郡誌」及び「日本鉱泉誌」には、花山法皇に随従したのは「尼僧明覚」とある。
*明智光秀:1528(享祿元)~1582(天正10)年。安土桃山時代の武将。日向守。通称十兵衛。のち惟任(これとう)と改名。織田信長に仕え、戦功により近江坂本城主となる。1582(天正10)年、本能寺で信長を襲い自害させたが、11日後、山城山崎で羽柴秀吉と戦って敗れ、小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。
*古総湯:2010(平成22)年に整備された。外装だけではなく、2階の休憩所や、浴室の床や壁に施された九谷焼のタイルやステンドグラスなどの内装も明治時代の状態に復元している。また、当時の入浴方法で、温泉に浸かって楽しむだけの「湯あみ」も再現され、入浴しながら温泉の歴史や文化が楽しめる「体験型温泉博物館」となっている。泉質は「総湯」と同じナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)に単純温泉(低張性・弱アルカリ性・温泉)を混合している。
*与謝野鉄幹:1873(明治6)〜1935(昭和10)年。明治から昭和期の歌人・詩人。本名は寛 (ひろし) 。京都府の生まれ。落合直文 (なおぶみ) 門下。1899(明治32)年東京新詩社を結成し、翌年「明星」を創刊して和歌革新を提唱。妻晶子とともに明星派の浪漫主義の歌風を確立した。
*与謝野晶子:1878(明治11)~1942(昭和17)年。明治から昭和時代前期の歌人。与謝野鉄幹主宰の東京新詩社社友となり、「明星」に短歌を発表。1901(明治34)年に第1歌集「みだれ髪」に奔放な愛の情熱をうたって反響をよぶ。同年鉄幹と結婚し、ともに浪漫主義詩歌運動を推進するかたわら、社会問題の評論、文化学院の創立など多方面に活躍した。長詩「君死にたまふことなかれ」は反戦詩として知られる。
*泉鏡花:1873(明治6)~1939(昭和14)年。小説家。本名、鏡太郎。石川県金沢に生まれる。尾崎紅葉の門下。はじめ「夜行巡査」「外科室」などの観念小説を発表、のち「湯島詣」「高野聖」で作風の完成をみ、神秘的、浪漫的世界を展開した。ほかに「照葉狂言」「歌行燈」「婦系図」「滝の白糸」など。
*北大路魯山人:1883(明治16)~1959(昭和34)年。大正から昭和時代の陶芸家。生家は京都上賀茂神社の社家。書と篆刻で身をたて、古美術、陶芸、料理を研究する。1925(大正14)年東京麹町に料亭星岡(ほしがおか)茶寮をひらく。のち鎌倉の星岡窯で食器制作をはじめ、志野、備前、織部などの技法をいかした豪放な作風で知られた。本名は房次郎。
*九谷焼窯跡展示館:江戸時代に造られた九谷窯跡や、現存最古の九谷焼の登り窯である九谷窯を見ることができる。また、九谷焼の窯元が実際に代々住居兼工房として使っていた古民家で、九谷絵付け体験やロクロ体験もできる。