妙成寺みょうじょうじ

北陸における日蓮宗の本山で、能登一の大伽藍を誇る名刹である。羽咋市北部の丘の上にあり、シンボルとして五重塔*が聳える。1294(永仁2)年、日蓮の孫弟子日像を開祖*により建立されたと伝えられている。現在の建物は加賀前田家初代から五代にわたって造営されたもので、天災・火災にあわず、10棟*が国重要文化財に指定されている。
 前田家のなかでも三代利常の生母・寿福院の庇護が篤く、五重塔のほかに本堂*、三十番神堂、祖師堂*、 三光堂などを建立し、死後は菩提寺として納骨されている。その後の歴代藩主も寄進など多大な支援を行い、ながらく前田家ゆかりの能登の 古刹として栄えた。
 二王門* をくぐると正面に五重塔、左側には経堂、右側には本堂を真ん中に、向かって右に祖師堂、左に三光堂が配置され、とくに右側の3つの御堂が横一線に並んだ建物配置は、古い時代の日蓮宗寺院の特徴を唯一残している。
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みどころ

加賀藩祖・前田利家は1581(天正9)年に織田信長から能登一国を与えられことから、加賀百万石の始まりは能登だったといわれる。妙成寺は、能登、加賀、越中につながる交通の要衝であった小高い丘の上にあるが、現代の感覚からいえば鄙の地(都を離れた土地)であり、想わず「こんなところにこのような立派なお寺が・・・」という驚きを覚える。坂道を登って二王門を潜ると、前田家によって建立され、重要文化財に指定されているさまざまな建造物が現存しており、幕府と肩を並べるほどの高い建築技術を誇っていたとされる加賀藩御大工の技術の粋を集めた、建立当時の寺院建築を見て回る楽しさがある。とくに総高34.18m五重塔は多彩な彫刻が施されており、近くで見ても迫力があるが、ことに書院の前庭から見る姿がひときわ美しい。
 なお、「加賀騒動」*で謀反人とされた大槻伝蔵の墓(供養碑)もある。
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補足情報

*五重塔:1618(元和4)年建立された栩葺(とちぶき)の塔で、前田家御用大工の坂上越後守嘉紹が棟梁として建立した北陸唯一の木造五重塔であり、江戸時代初期の代表的傑作の一つとされる。
*日像の開祖:1294(永仁2)年春、日蓮の遺命を受け、孫弟子の日像が法華経布教のために京都へ向かった。途中、佐渡から七尾へと渡る船の中で法論を交わした能登・石動山の僧 満蔵法師が、日像に論伏されて日像の弟子となり、法華宗に転宗して日乗と改名。2人は七尾で下船後、石動山に登り、衆徒に説法したが、反発を受けて闘争沙汰となり下山。山を降りたどり着いたのが 滝谷の地。ここに日像を開祖、日乗を第二祖として、北陸最初の法華道場・滝谷妙成寺が建立された。
*10棟:二王門、経堂、五重塔、三十番神堂、三光堂、本堂、祖師堂、鐘楼、書院、庫裡
*本堂:桃山建築の 粋が集められた入母屋造り杮葺の建物で各所に唐様式を確認できる。1614(慶長19)年の建立とされるが、もう少し古いという資料もある。本尊は一塔両尊・四天王四菩薩などである。
*祖師堂:本堂の右手にあり回廊で結ばれている。1625(寛永2)年の建立とされ、唐様式を主調とし妙成寺建築物中出色のものとされる。宗祖日蓮大菩薩像を安置する。
*二王門:1625(寛永2)年に建立された単層三間一戸楼門(柱間が三間で戸がひとつの単層の門)で、両脇には江戸時代初期の作とされる「阿形」「吽形」の 仁王像が安置されている。
*加賀騒動:1723(享保8)年に加賀藩第6代藩主となった前田吉徳によって重用された足軽出身の大槻伝蔵などによって引き起こされたとされるお家騒動。外様の大大名である加賀藩では、幕府から目付け役として派遣された本多家などの重臣によって藩政が行われていたが、吉徳は財政立て直しなどの藩政改革を進めた。しかし吉徳は1745(延享2)年に病没、旧守派が盛り返し、後ろ盾を失った大槻は失脚した。その後、第7代藩主の毒殺や第8代藩主などの毒殺未遂とされる事件が起こり、不義密通相手の大槻伝蔵と図った吉徳の側室・真如院が主犯とされ、後に歌舞伎、講談などでよりスキャンダラスな事件として潤色され世に広まった。しかし、状況などからみてつじつまが合わない点が多く、事件そのものがでっち上げという説もある。