井波別院瑞泉寺
井波別院瑞泉寺は、富山県南砺市(旧井波町)にある1390(明徳元)年、本願寺第5代の綽如(しゃくにょ)によって開かれた浄土真宗の真宗大谷派寺院である。明から送られてきた難解な国書を綽如が解読したことから、後小松天皇より才と功績を認め、一寺寄進を申し出られたと伝わる。その後は北陸の浄土真宗信仰の中心としての役割も果たすとともに、越中の一向一揆の重要拠点となる寺院ともなっていった。戦国時代には兵火によって焼き払われてしまうが、再建された。さらに、1879(明治12)年、火災で山門を残して主要な伽藍を焼失。1885(明治18)年に本堂、1918(大正7)年に太子堂が再建された。
山門(大門)は、1785(天明5)年、京都の大工によって建設が始まったが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成した。再建のため京都本願寺から派遣された彫刻師が「前川三四郎」であり、この前川三四郎が、地元井波の大工達に京都の伝統的な寺院彫刻の技を伝え、これが井波彫刻の始まりとなった。
現在の本堂は、1885(明治18)年に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本有数の建物。井波の大工、彫刻師が完成させたものである。特に太子堂は、井波建築、井波彫刻、井波塗師の技が結集されている。約16間(29m)四面、総面積255坪(840m2)の重層伽藍。内陣中央に後小松天皇より開基綽如上人に下賜された聖徳太子二歳の尊像、両脇壇には開基綽如上人御影と瑞泉寺前住職御影を安置。毎年7月21日から29日まで行われる恒例の太子伝会は、八幅の御絵伝に描かれた聖徳太子の一生を絵解きする全国でも稀な仏事である。
山門(大門)は、1785(天明5)年、京都の大工によって建設が始まったが、京都本願寺の再建工事が始まったため、井波大工がその後を引き継ぎ完成した。再建のため京都本願寺から派遣された彫刻師が「前川三四郎」であり、この前川三四郎が、地元井波の大工達に京都の伝統的な寺院彫刻の技を伝え、これが井波彫刻の始まりとなった。
現在の本堂は、1885(明治18)年に再建されたもので、木造建築の寺院としては、日本有数の建物。井波の大工、彫刻師が完成させたものである。特に太子堂は、井波建築、井波彫刻、井波塗師の技が結集されている。約16間(29m)四面、総面積255坪(840m2)の重層伽藍。内陣中央に後小松天皇より開基綽如上人に下賜された聖徳太子二歳の尊像、両脇壇には開基綽如上人御影と瑞泉寺前住職御影を安置。毎年7月21日から29日まで行われる恒例の太子伝会は、八幅の御絵伝に描かれた聖徳太子の一生を絵解きする全国でも稀な仏事である。

みどころ
瑞泉寺のみどころは、なんといっても随所に彫られた彫刻である。歴史的なものとして、1792(寛政4)年に再建した式台門(勅使門または通称菊の門)の両脇板には番匠屋北村(田村)七左衛門が施した「獅子の子落とし」、蛙股には莫、虹梁には松に鶴が彫られている。また、山門の各所にも数々の彫刻や文様が施されており、正面の唐狭間の彫刻「雲水一疋龍」は京都の前川三四郎の作で、山門が類焼したさいに、水を吐いて火災を防いだという逸話もある。
また、瑞泉寺の門前町として発展した井波には、表参道にあたる八日町通りを中心に、現在も古い街並みが残されており、彫刻・工芸作品を販売するお店もみられる。瑞泉寺再建に端を発した井波彫刻は、欄間・獅子頭・天神像などの伝統工芸品を生み出し、彫刻産業全国一の規模を誇るまでになった。現在では、約200人の職人の工房がまちの中心を貫く八日町通りを中心に軒を連ねている。
また、瑞泉寺の門前町として発展した井波には、表参道にあたる八日町通りを中心に、現在も古い街並みが残されており、彫刻・工芸作品を販売するお店もみられる。瑞泉寺再建に端を発した井波彫刻は、欄間・獅子頭・天神像などの伝統工芸品を生み出し、彫刻産業全国一の規模を誇るまでになった。現在では、約200人の職人の工房がまちの中心を貫く八日町通りを中心に軒を連ねている。
関連リンク | 井波別院瑞泉寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
井波別院瑞泉寺(WEBサイト) 瑞泉寺にある案内看板 VISIT TOYAMA STYLE(富山県地方創生局 観光振興室・公益社団法人とやま観光推進機構)(WEBサイト) |
2025年03月現在
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