雄山神社(峰本社・祈願殿・前立社壇)おやまじんじゃ(みねほんしゃ・きがんでん・まえだてしゃだん)

雄山神社は、701(大宝元)年の立山開山*1にはじまる立山信仰*2を今に伝える神社で、祭神は、伊邪那岐神(いざなぎ)・立山大権現雄山神(本地・阿弥陀如来)、天手力雄神・刀尾天神剱岳神(本地・不動明王)である。立山の主峰である雄山に峰本社(奥社)をもち、麓の芦峅寺(あしくらじ)の祈願殿、さらに下った岩峅寺(いわくらじ)にある前立社壇(まえだてしゃだん)の3社からなる。
 立山は開山の後、室町時代には修験者の道場として知られたところで、これを背景として一山組織を作った立山中宮寺(芦峅寺)は、芦峅寺の集落に大きな寺院集落*3を作るほどの繁栄を極めたが、明治維新の廃仏毀釈によって中宮寺は取り壊され、雄山神社と名を改めることになった。立山登山は、むかしから岩峅寺と芦峅寺の2社を詣でたのち、雄山山頂に登り、峰本社を参拝するのが習わしであった。
 富山地方鉄道岩峅寺駅から常願寺川に向かったところにある前立社壇は山裾の平野部に位置し、峰本社の里宮として創建され、古くは大宮立山寺と呼ばれ、江戸時代には岩倉寺、明治時代には岩峅寺雄山神社遙拝所と呼ばれてきた。立山の前に立つ社であることから前立社壇と呼ばれる。起源は定かではないが、岩峅の地名は磐座(神・精霊が来臨する岩石の座)に通じるとされ、小字名の「岩坂」も「磐境」の神聖な意味から転じたものと考えられている。社伝によると1191(建久2)年に源頼朝が再建し、足利義稙によって修復されたとしている。その後も佐々成政の庇護を受けたと言われている。本殿は、室町時代後期の様式を残しており、国の重要文化財に指定されている。
 中宮祈願殿は富山地方鉄道千垣駅から常願寺川の上流に向かったところにある。樹齢500年の神気漂う杉並木の参道からはじまり、祭壇には神仏習合時代の信仰を伝えるように燈明が立てられている。
 峰本社は標高3,003m海抜一万尺の雄山の山頂に建つ。頂上の社務所から鳥居をくぐり、さらに岩場状の登山道を登り詰めたところにある。岩頭に鎮座するその姿は、山岳信仰の登拝をよく表している。
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みどころ

3つの宮は、立地、趣ともに全く異なっている。
 最も平野部に近い岩峅寺にある前立社壇は、信仰者の便をはかるため、里宮として創設されたものである。本殿は室町時代中期の建築と見られ、神社本殿としては北陸地方で最大である。屋根は桧皮葺きの流れ造りで、美しい曲線を作り出している。内陣には朱塗りや黒漆を施し、金箔を押した装飾金具が取り付けられて、細部にわたるまで豪華である。
 芦峅寺の中宮祈願殿の巨大なスギが林立する境内は、日本三霊山の一つとして古くから崇敬されてきた立山の祈願殿にふさわしい尊厳な雰囲気と佇まいである。祈願殿に隣接する立山博物館は、立山の歴史と信仰を研究紹介する施設で、展示館、遙望館、まんだら遊苑、布橋*4、教算坊などの施設が約13万m2の広大な敷地内に点在する。
 雄山山頂の峰本社は、3,000m級の立山登山の終着点にあたる。ここではご祈祷を受けることができ(8時~15時)、夏山シーズンには多くの参拝者で賑わう。
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補足情報

*1 立山開山:立山信仰の原点でもある「立山開山」については、701(大宝元)年に越中の国の国司佐伯有若(さえきありわか)の息子佐伯有頼(さえきありより)によって開山されたという説が知られている。他にも、主に十巻本『伊呂波宇類抄』の立山開山伝承に登場する開山者「佐伯有若(さえきありわか)」が随心院文書によって実在が確認されたことと、『師資相承』に記された康斉律師の「立山建立」の語の解釈などを併せて、立山開山の時期を10世紀初頭とする説が有力だが、諸説ある。(出所:米原寛「検証「立山開山」について」、富山県[立山博物館]研究紀要、第17号、2010年3月)。なお、佐伯有頼は伝承では676-759年とされるが、諸伝承などの年号と照らし合わせると齟齬がある。父親の佐伯有若も長年伝説上の人物とされてきたが上述の通り実在が実証されている。
*2 立山信仰:日本では平安時代のはじめ、密教を招来して以降、山や川、草や木々に神が宿るといったそれまでの自然と神の一体的で素朴な自然観が、仏の世界に至る修業の場としての自然というように自然観が大きく変わった。山麓で暮らす人たちにとって、山とは大切な水源、燃料その他の生活資料の供給源であり、生活に深く結ばれていたことから山の信仰が生まれ、説話が生まれた。立山に関しても、こうした自然と人間の共生の中で、自然のこころを人間の生きざまの中にとりこんできたのが「立山信仰」である。立山は、山容や地獄谷などの特異な景観によって形づくられた特殊な山岳信仰である。平安時代の中ごろから立山信仰は、地獄信仰と結びつき、日本中の霊がここに集まるものと考えられようになった。さらに鎌倉時代には、阿弥陀如来の山中浄土がこの山に展開するという山中に地獄と浄土が併存する他界信仰が形づくられていった。弥陀ヶ原、浄土山等、立山の山中地名に浄土信仰の影響をみることができる。本来、来世の世界であり、バーチャルの世界であるはずの地獄の世界が立山山中という現実の中に顕れることが、「地獄」そのものに現実の世界を与え、日本人の地獄思想の形成に大きな役割を果たしたといわれている。室町時代には、世阿弥の作と伝えられる謡曲「善知鳥(うとう)」が上演され、現在にも受け継がれている。江戸時代になると、地獄思想は立山曼荼羅に描かれた地獄の絵解きによって広く庶民の中に浸透していった。
*3 芦峅寺三十三坊:立山山麓の芦峅寺や岩峅寺には南北朝時代頃に修験者や行者が定着し、宗教村落がうまれた。修験者や行者は農業を生業としながら、ときには立山禅定の修験者や行者に対し宿泊の便宜をはかり、次第に住居は生活の場としてだけでなく、修験の行事などを営む場として利用されるようになった。住宅であり、宗教建築であり、接客及び宿泊施設でもあった住居、これが宿坊である。1800年頃の芦峅寺宿坊配置図には、芦峅寺三十三坊が確認できる。
*4 布橋:芦峅寺は立山参詣の玄関口であり、布橋は現世と来世との境とされ、橋の下を流れる「うば谷川」は三途の川に見立てられていた。
関連リンク 雄山神社(WEBサイト)
参考文献 雄山神社(WEBサイト)
とやまの文化遺産(文化庁)(WEBサイト)
中宮祈願殿にある案内版
雄山神社前立社殿(WEBサイト)

2025年04月現在

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