国技館で開催される大相撲こくぎかんでかいさいされるおおずもう

 JR・都営地下鉄両国駅から徒歩数分の場所にある両国国技館は、大相撲興行が行われる施設である。正式名称は国技館。初代国技館は、1909(明治42)年に両国回向院の境内の一角に辰野金吾らの設計により誕生したが、関東大震災や第二次世界大戦の大空襲などにより焼け落ちてしまう。1954(昭和29)年に完成した2代目の蔵前国技館は、建物の老朽化などにより30年後に閉館。現在の場所に建つ両国国技館は3代目で、1985(昭和60)年から本場所の会場として使用されている。年6回の本場所のうち、1月、5月、9月の3場所がここで開催される。
 相撲の起源は、『古事記』の力くらべの神話や『日本書紀』に記されている野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)の天覧勝負の伝説だと考えられている。奈良時代には五穀豊穣を祈願する神事として執り行われるようになり、平安時代には「相撲節会(すまいのせちえ)」とよばれ、天皇をはじめ殿上人(てんじょうびと)が観覧する宮中行事となった。鎌倉時代から戦国時代にかけては、武士の戦闘の訓練として相撲が盛んに行われた。戦に役立つとして、力士を家来に召し抱える戦国武将もいた。とりわけ織田信長は相撲の愛好者だったといわれている。
 江戸で初めて「勧進相撲」が行われたのは、1624(寛永元)年と伝えられる。勧進相撲とは、寺社の修復などにあてる経費を集める目的で催される相撲のこと。幕府の許可のもと、深川の富岡八幡宮や蔵前の藏前神社など、さまざまな寺社の境内で勧進相撲が開催された。江戸時代に相撲は庶民の娯楽として定着し、相撲を職業とする力士集団が現れた。両国回向院で初めて勧進相撲が行われたのは、1768(明和5)年のこと。1833(天保4)年からは春と秋の年2回の興行が行われ、江戸における相撲の定場所となった。
 明治時代に入り相撲興行は一時衰退するが、1884(明治17)年の明治天皇の天覧相撲や、常陸山や梅ケ谷などの名力士の登場により、再び相撲の人気が高まる。昭和時代にラジオやテレビの中継が始まると、大相撲は全国的なブームに。69連勝を達成した双葉山、「ウルフ」とよばれた千代の富士、若貴フィーバー、外国人力士の活躍など、日本の伝統文化である相撲は多くの人々を魅了し続けている。
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みどころ

満員御礼の日が多いので、前売り券を購入するのが望ましい。座席は、溜席(通称砂かぶり)、桝席、イス席などがあり、方向は、正面、向正面、東、西の4方面ある。
 力士の出世は番付で表され、番付は序ノ口から横綱まで10段階に分かれている。序ノ口から始まり、序二段、三段目、幕下と出世して、十両*を目指す。幕下以下の力士は「力士養成員」といい、給料はもらえない。十両以上は「関取」とよばれ、付け人がつくほか、幕下までには許されない羽織・袴、絹のまわしを身に着け、大銀杏を結うことが許される。また、100万円以上の月給がもらえるなど、待遇が大きく変わる。

 本場所の開場は8時頃で、18時に終了する。新弟子同士の対戦「前相撲」から序ノ口~幕下の取組、幕内*・横綱*土俵入り、結びの一番、弓取式まで見ることができる。ここでは15時40分頃の幕内土俵入り(初日と千秋楽は進行時間が早まる)から、相撲の仕種の背景を見ることにしよう。
・土俵:神様が降りてくる神聖な場所とされ、土足は禁止。日本相撲協会が主催する興行では、女性は土俵に上がることはできない。本場所初日の前日には「土俵祭」が行われる。土俵の中央に15㎝ほどの穴を開け、「鎮め物」とよばれる縁起物(勝栗、茅の実、洗米、昆布、するめ、塩)を収め、清めのお神酒を注ぐ。
・四本柱・吊り屋根:かつて屋根は4本の柱で支えられていたが、1952(昭和27)年に柱は撤去された。現在は土俵の上に屋根が吊るされており、その吊り屋根の四隅に、中国の四神信仰に基づく4色の房が下げられている。青(春/東/青龍神)、赤(夏/南/朱雀神)、白(秋/西/白虎神)、黒(冬/北/玄武神)の各色は、四季、方位、方位を守る神様を表している。吊り屋根は神明造り。

 土俵上での力士の所作はすべて「神に捧げる」意味が込められている。その所作を見ることにしよう。
・幕内土俵入り:元々は力士が神に祈る儀式だったが、現在は主に観客への顔見せのために行われる。奇数日は東方の力士から、偶数日は西方の番付の下から順に土俵に上がる。大相撲の華で、このときのために作られる化粧まわしの柄を見るのが楽しい。化粧まわしの前垂れには「馬簾(ばれん)」とよばれる房が付いており、紫色の馬簾は横綱・大関以外は使用することができない。
・横綱土俵入り:横綱は太刀持ちと露払いの力士を前後に伴って土俵に上がる。土俵入りの型には雲龍型と不知火型がある。雲龍型は左手を脇腹にあてて「守り」を表し、右手を横に広げて「攻め」を表す。不知火型は両手を広げて「攻め」だけを表す。
・中入り:休憩時間。立行司が翌日の取組を披露することもある。
・四股を踏む:体をほぐすととともに、地中にいる悪霊の怒りを鎮めて地上に出てこないようにする行為。
・仕切り:相撲の取組における立ち合いの構え。昔は無制限だったが、テレビ放映が開始されてから幕内は4分となった。力士はこの時間内に準備運動、精神の統一、技術の確認を行う。制限時間内で仕切りを繰り返すが、両者の呼吸が合えば1回目から立ち上がってもよい。
・塩をまく:土俵の邪気を払い、力士の身を清めることとケガをしないようにと祈る意味もある。国技館では、1日約45kg、15日間で約650kgもの塩が用意されている。
・力水をつける:力水とは、取組前に土俵下の力士が桶から柄杓で水をすくい、土俵上の力士に渡す水のこと。力水で口をすすぎ、身を清める。原則として、直前の取組で勝った力士が渡すが、勝った力士がいない場合は控え力士が渡す。
・弓取式:すべての取組が終わった後に行われる儀式。結びの一番の勝者に代わり、作法を心得た力士が土俵上で勝者の舞を演ずる。東の力士が勝者のときは東から土俵へ上がり、西の力士が勝者のときは西から上がる。誤って弓を落としたときは手では拾わず、足で跳ね上げてつかむ。これは、手を土俵につくのは「負け」とされるため。
 千秋楽には三役*揃い踏みがある。
 
 また、館内には無料(場所中は大相撲の観覧券が必要)の「相撲博物館」があり、錦絵、番付、化粧まわしなど、相撲に関する資料を保存・公開している。
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補足情報

*十両:十両以上が「関取」とよばれる。大銀杏のまげを結うことができ、ファンなどからの求めに応じてサインもできるようになる。正式な名称は十枚目で、十両の賃金をもらったので十両ともいう。
*幕内:前頭*以上を「幕内」といい、番付の第一段の欄内に名が記される。昔、上位の力士だけが幕の中で出番を待てたという説や、選ばれた力士のみが殿様が観戦する幕の中に入ることを許されたからなど、由来には諸説ある。
*横綱:力士の最高位、かつ横綱力士が土俵入りの際に腰に締めるもの。江戸時代から明治末期までの「横綱」は、横綱を締めて土俵入りすることを認められた力士の称号で、地位を表すものではなかった。1890(明治23)年の第16代横綱・西ノ海(初代)から、横綱が大関の上位の地位として番付に載るようになった。
*三役:小結、関脇、大関のことで、待遇面では大関が別格。
*前頭:横綱・三役を除いた幕内力士の総称。役に付いていない幕内力士という意味で、平幕ともよばれる。幕内の定員は42名までと決まっているため、前頭の人数で調整する。上から前頭筆頭といい、以下、前頭何枚目と数える。
*蒙御免(ごめんこうむる):番付表の真ん中に「蒙御免」と書かれているのは、寺社奉行の許可を得ているという意味。江戸時代の勧進相撲の慣習が受け継がれている。
関連リンク 日本相撲協会(公益財団法人日本相撲協会)(WEBサイト)
参考文献 日本相撲協会(公益財団法人日本相撲協会)(WEBサイト)
「相撲の歴史」池田雅雄 平凡社カラー新書 1977
「力士はなぜ四股を踏むのか」工藤隆一 日東書院 2007
「大相撲観戦GUIDE BOOK 令和4年五月場所」日本相撲協会
「大相撲手帳」杉山邦博監修 東京書籍株式会社 2016

2025年06月現在

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