立教大学(池袋)
JR・東京メトロ・西武池袋線池袋駅の西口から徒歩約7分の地に池袋本校はある。アメリカ聖公会主教ウィリアムズが、1874(明治7)年に東京築地に設立した私塾「立教学校」に始まる。1883(明治16)年、校名を立教大学校に変更した。1907(明治40)年、専門学校令により立教大学として文科、商科から出発したキリスト教系大学である。中興の祖といわれるタッカーが池袋に広い土地を買い求め、1918(大正7)年に、ライフスナイダーのもとで新しい校舎を建設した。1922(大正11)年に大学令による大学として認可される。1926(昭和元)年、立教大学教授として着任したポール・ラッシュは、在任中、日本初のアメリカン・フットボールを日本に紹介したほか、大学の第2応援歌「ST.PAUL’S WILL SHINE TONIGHT」を定着させた。立教大学の英語名St.Paulは、この応援歌によって一般に広まった。ラッシュは、戦後、寒村だった山梨県清里を、”戦争で荒廃した日本全国の農地の再建”を目標にして開拓。いまでも清里の人たちは、清泉寮を中心に、ラッシュの精神を受け継いで地域の振興に取り組んでいる。
立教大学は、2025年現在、池袋に7学部と埼玉県新座市に4学部あり、それぞれに大学院が置かれ、高等学校・中学校・小学校が付属している。
立教大学は、2025年現在、池袋に7学部と埼玉県新座市に4学部あり、それぞれに大学院が置かれ、高等学校・中学校・小学校が付属している。

みどころ
1919(大正8)年に完成した第一食堂は、レンガ造りの外観や漆喰をまとった壁面など美しい雰囲気をもつ学生食堂。入口のドアの上にはラテン語で"食欲は理性に従うべし"と書かれている。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったもの。外部の人も食事ができる。食後は、スズカケ(プラタナス)の並木道を歩こう。並木道は1924(大正13)年に植樹され、1942(昭和17)年に立教大学を母校とする灰田勝彦が歌いヒットした「鈴懸の径」のモデルとなった。記念碑がスズカケの並木道にある。毎年、12月になると、キリスト教の大学にふさわしく、正門にある樹高20mの2本のヒマラヤスギに約1100個の色電球が点灯され、中旬にはキャンドルを手にクリスマスソングを流しながら、池袋の街を歩くキャロリングが行われる。点灯期間中の1月6日まで、キャンパスはクリスマス・新年の雰囲気一色となり、外部からも多くの人が訪れる。
立教大学は「ツタがからまる赤レンガ」でも知られるが、1994(平成6)年から95(平成7)年にかけて行われた、本館(1号館/モリス館)の補修工事は困難を極めた。大正年間(1912~1926)に赤レンガを制作した「ホフマン式窯」は、日本には現存しなかったため、国産の焼成前の半製品レンガを韓国に持ち込んで焼成するという、大掛かりなものとなった。外壁に絡んでいるツタを壁面から浮かした間から、破損レンガを抜き取り、新しく制作したレンガをはめ込んでいったのである。
立教大学は「ツタがからまる赤レンガ」でも知られるが、1994(平成6)年から95(平成7)年にかけて行われた、本館(1号館/モリス館)の補修工事は困難を極めた。大正年間(1912~1926)に赤レンガを制作した「ホフマン式窯」は、日本には現存しなかったため、国産の焼成前の半製品レンガを韓国に持ち込んで焼成するという、大掛かりなものとなった。外壁に絡んでいるツタを壁面から浮かした間から、破損レンガを抜き取り、新しく制作したレンガをはめ込んでいったのである。

補足情報
全国の大学の中で、長年、日本で唯一の観光学科がある大学として知られていた。1967 (昭和42)年、社会学部に日本初の観光学科が設置された。1989年、平成時代に入ると、全国各地に観光学科が誕生したが、立教大学では1998(平成10)年に観光学科が観光学部に発展し今日に至っている。
関連リンク | 立教大学(学校法人立教学院)(WEBサイト) |
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参考文献 | 立教大学(学校法人立教学院)(WEBサイト) |
2025年06月現在
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