宝生能楽堂で上演される能・狂言ほうしょうのうがくどうでじょうえんされるのう・きょうげん

JR水道橋駅から徒歩3分、都営地下鉄水道橋駅より徒歩1分の宝生能楽堂は、宝生流の活動中心舞台である。宝生流は、能楽諸役のうち、主演などをつとめるシテ方の流儀をいう。シテ方宝生流は、大和猿楽四座*のうち、外山(とび)座を源流とする。外山座は、日本芸能発祥の地といわれる現在の奈良県桜井市外山を拠点として、多武峰(とうのみね)妙楽寺(現、談山神社)に属して活動してきた。室町時代、世阿弥*の芸談『申楽談儀』にも、宝生座の記述があり、古くからあったことを示す。戦国時代・江戸時代には、戦国大名や徳川幕府の将軍らの手厚い支援を受けて、隆盛の基盤が築かれた。現在、宝生流20代宗家は宝生和英(かずふさ)である。
 宝生流の舞台の変遷をみると、9代宝生大夫友春のとき、神田旅籠町に屋敷を構え、1713(正徳3)年に舞台ひらきをした記録が残る。明治時代になると宝生大夫は俸禄を失い、この屋敷を手放した。明治以降の宝生流の舞台の始まりは、1885(明治18)年ごろに建てられた神田猿楽町の松本稽古舞台。松本金太郎は16代宗家、宝生九郎知栄の高弟で、松本のもとに集まった人たちが松本稽古会を立ち上げ、能役者が出演するようになった。簡素だった舞台は1893(明治26)年に改築され、「猿楽町舞台」と呼ばれるようになった。これを機会に松本稽古会は名前を宝生会へと改めた。宝生会は内外に広く認知されるようになり、玄人による月浪能(月並能とも書かれる)もこのころ確立したようである。
 1913(大正2)年に神田猿楽町に新しく建設された猿楽町舞台は、当時、東京随一といわれた絢爛な舞台だった。しかし、関東大震災で焼失。震災翌年の1924(大正13)年に、現在の宝生能楽堂の地となる松平頼寿伯旧邸跡地が提供され、1928(昭和3)年に宝生会館能楽堂が完成した。ところが、東京大空襲で焼失。1950(昭和25)年に「水道橋能楽堂」として再建され、老朽化が進んだ1978(昭和53)年に、現在の能楽堂が完成した。
 初心者に向けて「謡曲・仕舞教室」が開かれている。希望者は入学金・授業料を支払い、月3回、2年間の指導を受けることができる。
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みどころ

宝生能楽堂では、特別公演が年4回、若手能楽師の勉強会として始まった「五雲能」や「女流能」などの定期公演が年10回、夜能が年2~3回行われる。夜能は、能の物語を朗読用に脚本化し、朗読によって理解を深めながら楽しめるように、能と朗読を組み合わせた能楽公演である。
 宝生能楽堂では宝生流のほか、都内に能楽堂をもたない金春流(こんぱるりゅう)をはじめ、橋掛かり*が他の能楽堂より優れ、収容力が490席と大きいという理由で定期公演を行う銕仙会(てっせんかい)や野村狂言座など、他流の催しにも活用され、広く能楽の普及・発展への活動の場になっている。本郷の地で90年以上にわたって活動している関係から、文京区も能に関する活動を能楽堂で行っている。
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補足情報

*大和猿楽四座:大和地方に存在した4つの猿楽座をいう。坂戸座、円満(えまい)座、外山座、結崎(ゆうざき)座で、それぞれが後の金剛、金春、宝生、観世となる。
*世阿弥:室町初期の能役者・能作者。大和猿楽結崎座二代目太夫。足利義満に仕え、能を優雅なものに洗練させた。
*橋掛かり:左手に長くのびた廊下で、揚幕から本舞台につながる。橋掛かりが短いと、橋掛かりに大勢登場する演目や橋掛かりを多く使う演目が難しくなり、能の効果が十分に得られなくなる。
関連リンク 公益社団法人宝生会(WEBサイト)
参考文献 公益社団法人宝生会(WEBサイト)
「お能の見方」 白洲正子、吉越立雄 新潮社
「能楽 宝生流」 宝生会

2025年06月現在

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