湯島聖堂
JR御茶ノ水駅の東、神田川に架かる聖橋の北の橋詰にある。道路をはさんだ西側には東京医科歯科大学のキャンパスと病院が広がる。1690年(元禄3)年、江戸幕府5代将軍徳川綱吉が儒学振興のため、上野忍岡の林羅山*の私邸にあった私塾と廟殿をこの地に移し、孔子*廟を拡大・整頓し、大成殿と改称したのがはじまり。この時から大成殿と附属の建造物を「聖堂」と呼ぶようになった。1797(寛政9)年には、幕府直轄の昌平坂学問所*(「昌平黌」)が併設され、江戸時代の官立の最高学府の役割を果たした。明治維新後は、文部省や博物館・書籍館(しょじゃくかん)・師範学校などがここに置かれ、近代教育の出発点のひとつともなった。
湯島聖堂とは孔子を祀った廟で、その中心をなす大成殿には孔子像をはじめ、孔子の高弟の顔子・曽子・思子・孟子の木主(ぼくしゅ 霊魂を祀る位牌)が安置されている。大成殿や学舎は、江戸時代には4回の大火に見舞われて焼失をくり返し、その都度再建されてきた。さらに現在の建物は1923(大正12)年に関東大震災で焼失したため、1935(昭和10)年に東京帝国大学教授伊東忠太*の設計により、寛政期当初の旧制を模した中国様式の鉄筋コンクリート造りで再建された。なお、大成殿に向う参道にある入徳門は1704(宝永元)年当時のものが遺されている。
湯島聖堂とは孔子を祀った廟で、その中心をなす大成殿には孔子像をはじめ、孔子の高弟の顔子・曽子・思子・孟子の木主(ぼくしゅ 霊魂を祀る位牌)が安置されている。大成殿や学舎は、江戸時代には4回の大火に見舞われて焼失をくり返し、その都度再建されてきた。さらに現在の建物は1923(大正12)年に関東大震災で焼失したため、1935(昭和10)年に東京帝国大学教授伊東忠太*の設計により、寛政期当初の旧制を模した中国様式の鉄筋コンクリート造りで再建された。なお、大成殿に向う参道にある入徳門は1704(宝永元)年当時のものが遺されている。

みどころ
JR御茶ノ水駅から聖橋を北に進み、鉄道線路と神田川を渡ると、右手にこんもりとした森が見える。橋を渡ってすぐ、右手の石段を下って少し進むと、左手に入徳門が見えてくる。簡素な門なので、見落としがちだが、これが江戸時代から唯一遺る木造の建造物だ。入徳門を抜け、石段を登ると正面が孔子廟にあたる大成殿だ。廟内は、天井が高く、がらんとした感じを受けるが、中央の神龕(厨子)に孔子像、左右には四配として顔子・曽子・子思・孟子の四賢人が祀られている。いわゆる日本の神社仏閣とは異なった雰囲気だが、学問の奥深さと森厳さが伝わってくる。
湯島聖堂では、「昌平坂学問所」の伝統を継承しようと文化講座が開設されており、論語や漢詩など中国古典文学などを学ぶ場も用意している。
湯島聖堂では、「昌平坂学問所」の伝統を継承しようと文化講座が開設されており、論語や漢詩など中国古典文学などを学ぶ場も用意している。

補足情報
*林羅山:1583(天正11)~1657(明暦3) 江戸初期の儒学者。京都生れ。建仁寺で禅学を学び、1604年(慶長9)藤原惺窩に師事し、その推挙で江戸幕府の4代の将軍に仕え文書行政に携わった。1630年(寛永7)徳川家光から上野忍岡の地を寄進され私塾を設けた。これにより林家は幕府の学政に参画することとなった。学統としては、朱子学を基調としているが、神儒合一など差異も見られる。武家諸法度、寛永諸家系図伝、朝鮮使節への国書の起草などの編纂執筆にあたった。湯島への移転時に林家3代目鳳岡(信篤)が幕府の大学頭となり、その後、代々林家が受け継ぐことになった。
*孔子:BC552~BC479 中国春秋時代後期の人で、儒学・儒教の始祖。魯の昌平郷・陬邑(すうゆう)で生まれる。道徳主義を説き、徳治政治を協調。「論語」は孔子の言行を語録体にまとめたものである。
*昌平坂学問所:1630(寛永7)年林羅山が上野忍岡に私塾を開いたのが始まり。のちに幕府の助成を受けて官学としての性格を強め、1790(寛政2)年の寛政異学の禁を機に、1797(寛政9)年に昌平坂学問所(昌平黌)と名を改め、正式の官学となった。
*伊東忠太:1867(慶応3)~1954(昭和29)年 建築家、建築史家。米沢藩士の子。1892(明治25 ) 年帝国大学工科大学を卒業。日本最初の建築史家といわれる。中国の雲崗石窟の発見や東洋建築史の体系の確立などに尽力した。平安神宮や築地本願寺なども設計した。
*孔子:BC552~BC479 中国春秋時代後期の人で、儒学・儒教の始祖。魯の昌平郷・陬邑(すうゆう)で生まれる。道徳主義を説き、徳治政治を協調。「論語」は孔子の言行を語録体にまとめたものである。
*昌平坂学問所:1630(寛永7)年林羅山が上野忍岡に私塾を開いたのが始まり。のちに幕府の助成を受けて官学としての性格を強め、1790(寛政2)年の寛政異学の禁を機に、1797(寛政9)年に昌平坂学問所(昌平黌)と名を改め、正式の官学となった。
*伊東忠太:1867(慶応3)~1954(昭和29)年 建築家、建築史家。米沢藩士の子。1892(明治25 ) 年帝国大学工科大学を卒業。日本最初の建築史家といわれる。中国の雲崗石窟の発見や東洋建築史の体系の確立などに尽力した。平安神宮や築地本願寺なども設計した。
関連リンク | 史跡湯島聖堂(公益財団法人斯文会) |
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参考文献 |
史跡湯島聖堂(公益財団法人斯文会) 「山川 日本史小辞典 改訂新版 」林羅山・林鳳岡(信篤) 山川出版社 「近代日本人の肖像」伊東忠太 (国立国会図書館)(WEBサイト) |
2025年06月現在
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