高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺)
京王線高幡不動駅の南口に出て200mほどで高幡不動尊の仁王門前に立つことができる。同寺の創建*1について、古文書では大宝年間(701~704年)以前とも伝えられるが、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場と定め、この地の山中に不動明王を安置し、不動堂を建立したことに始まるとされる。
丘陵が迫る境内には現在も25近い堂宇が建ち並び、仁王門と不動堂*2は各々鎌倉、室町時代造営の大建築である。不動堂の裏手の奥殿には本尊の木造不動明王像*3が安置され、交通安全の不動尊として信仰を集めている。さらにその奥の一段高い山門をくぐったところには「鳴り竜」*4と呼ばれる天井の墨絵を有する大日堂がある。不動堂の左手には、1980(昭和55)年に建立された、朱塗りが際立つ五重塔が建つ。さらに不動ヶ丘へと続く道は、整備された遊歩道となっており、あじさい園のなかを山内八十八ヶ所巡拝路が巡らされている。境内には近藤勇・土方歳三の碑*5や芭蕉句碑などがあるほか、大日堂裏手の墓地には小泉八雲が紹介した「勝五郎の転生」話*6の主人公勝五郎の前世「藤蔵の墓」もある。
年間行事としては、春秋の大祭(4月28日・9月28日)のほか、だるま市や稚児行列がある初不動大祭(1月28日)や2月の節分会には多くの参詣者が集まる。毎月28日に開かれる縁日も、多くの人で賑わう。
丘陵が迫る境内には現在も25近い堂宇が建ち並び、仁王門と不動堂*2は各々鎌倉、室町時代造営の大建築である。不動堂の裏手の奥殿には本尊の木造不動明王像*3が安置され、交通安全の不動尊として信仰を集めている。さらにその奥の一段高い山門をくぐったところには「鳴り竜」*4と呼ばれる天井の墨絵を有する大日堂がある。不動堂の左手には、1980(昭和55)年に建立された、朱塗りが際立つ五重塔が建つ。さらに不動ヶ丘へと続く道は、整備された遊歩道となっており、あじさい園のなかを山内八十八ヶ所巡拝路が巡らされている。境内には近藤勇・土方歳三の碑*5や芭蕉句碑などがあるほか、大日堂裏手の墓地には小泉八雲が紹介した「勝五郎の転生」話*6の主人公勝五郎の前世「藤蔵の墓」もある。
年間行事としては、春秋の大祭(4月28日・9月28日)のほか、だるま市や稚児行列がある初不動大祭(1月28日)や2月の節分会には多くの参詣者が集まる。毎月28日に開かれる縁日も、多くの人で賑わう。

みどころ
京王線高幡不動駅南口の右手を進み、高幡不動尊参道と書かれた門をくぐると、かつての参道の面影を残す商店街に入る。参道を抜けると、周辺の風景とは一線を画すように仁王門が建ち、その先にどっしりとした構えの不動堂が現れる。左手には不動ヶ丘の緑を背に、朱塗りの五重塔が燦然と輝いている。ここでのみどころは、まずは、仁王門と不動堂であろう。仁王門は現在は他を圧するような重層な楼門であるが、かつては外観上単層に修復された時期もあり、1959(昭和34)年の修復の際に原形の重層に戻されたという。ちなみに江戸後期の「江戸名所図会」では、単層の茅葺きの門として描かれている。不動堂は、中世の密教建築の遺構として当初の雰囲気を良く遺していると言われ、極めてシンプルな造りだが、禅宗様式も取り入れ、荘重な雰囲気を醸し出している。不動堂の現在の本尊は、身代わり仏の不動明王で、本来の不動明王像(国指定重要文化財)は、奥殿に安置されており、奥殿での拝観となる。
不動ヶ丘も抱え境内は広大で、アジサイ、モミジ、サクラ、ツバキなど四季折々の草木が植栽されているので、拝観の後は、山内八十八ヶ所を巡りながら、散策をしてみるのも面白い。
不動ヶ丘も抱え境内は広大で、アジサイ、モミジ、サクラ、ツバキなど四季折々の草木が植栽されているので、拝観の後は、山内八十八ヶ所を巡りながら、散策をしてみるのも面白い。

補足情報
*1 創建:1936(昭和11)年発行の東京市史稿によれば「金剛寺ハ眞言宗ノ古刹。傳説ニハ大寶(大宝)前_ニ草庵アリトイヒ、空海ノ創建以来山上ニアリ。貞観中圓仁(慈覚大師円仁)ノ再興、鎌倉幕政ノ初世平山季重(在地の武士)ノ重建ヲ經テ、建武暦應(1338~1342年)ノ際ニ及ビ、平助綱僧義海等之ヲ山下ノ現地ニ移シタリトイへバ、興廢重出セルガ如キモ、今ナホ暦應ノ古柱ヲ存ス」と紹介している。同書では山下への移築は建武暦應としているが、1342年に改元があり、同年中の康永元年に完工したと思われる。また、「應永二十二(1415)年乙未 僧乗海四方ニ募縁シテ高幡ノ金剛寺ヲ造營ス」ともしているが、これは実現しておらず、現在の不動堂は康永の移築時のものとされる。
*2 仁王門と不動堂:仁王門は室町時代後期に再建されたもの。重層八脚門、入母屋造、茅葺形銅板葺。不動堂は、上記(*1 創建)の項にある通り1342(康永元)年に山上から移築されており、建築様式や古い丸柱などから再建前の建物は鎌倉期の造営と考えられている。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺形銅板葺。
*3 木造不動明王像:同寺の本尊として二童子立像(矜羯羅童子・制_迦童子) とともに奥殿に安置されている。不動明王は大日如来が悪魔を降伏させるために化身して忿怒の姿となった五大明王のひとつ。密教の中心的仏像である。
不動明王像はカヤ材の寄木造。像高約286cm、光背を含めた総高は約420cm。いわゆる丈六の像。光背の刻銘や像内に納入された銘札により、1335(建武2)年の大風による不動堂倒壊に伴い破損し、1338(暦応2)年と1342(康永元)年に脇侍像とともに修復。二童子像は、矜羯羅童子が約193cm、制_迦童子が像高約230cmの半丈六でホウ材による一木割矧(わりはぎ)造。平安時代の丈六の不動三尊像として貴重な作例。なお、奥殿は自由参拝だが、寺宝の拝観は有料。
*4 鳴り竜:竜の下で柏手を打つと妙音を発するためこの名がある。拝観有料。
*5 近藤勇・土方歳三の碑:仁王門の近くに立ち、2人を賛した碑文が刻まれている。
*6 「勝五郎の転生」話:1815年(文化12)年に中野村(現・八王子市)で生まれた勝五郎は、8歳の時、自分の前世について、自分は程窪村(現・日野市、高幡不動尊から700mほど南)で生まれ、1810(文化7)年に6歳で没した藤蔵という名だったと語ったという。さらに藤蔵の死因は疱瘡で、家族の名前、家や村の様子など、藤蔵でしか知りえないことを語ったとされる転生話。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は江戸末期の「椿(珍)説集記」という説話集の写本をヒントに執筆したと考えられている。
*2 仁王門と不動堂:仁王門は室町時代後期に再建されたもの。重層八脚門、入母屋造、茅葺形銅板葺。不動堂は、上記(*1 創建)の項にある通り1342(康永元)年に山上から移築されており、建築様式や古い丸柱などから再建前の建物は鎌倉期の造営と考えられている。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺形銅板葺。
*3 木造不動明王像:同寺の本尊として二童子立像(矜羯羅童子・制_迦童子) とともに奥殿に安置されている。不動明王は大日如来が悪魔を降伏させるために化身して忿怒の姿となった五大明王のひとつ。密教の中心的仏像である。
不動明王像はカヤ材の寄木造。像高約286cm、光背を含めた総高は約420cm。いわゆる丈六の像。光背の刻銘や像内に納入された銘札により、1335(建武2)年の大風による不動堂倒壊に伴い破損し、1338(暦応2)年と1342(康永元)年に脇侍像とともに修復。二童子像は、矜羯羅童子が約193cm、制_迦童子が像高約230cmの半丈六でホウ材による一木割矧(わりはぎ)造。平安時代の丈六の不動三尊像として貴重な作例。なお、奥殿は自由参拝だが、寺宝の拝観は有料。
*4 鳴り竜:竜の下で柏手を打つと妙音を発するためこの名がある。拝観有料。
*5 近藤勇・土方歳三の碑:仁王門の近くに立ち、2人を賛した碑文が刻まれている。
*6 「勝五郎の転生」話:1815年(文化12)年に中野村(現・八王子市)で生まれた勝五郎は、8歳の時、自分の前世について、自分は程窪村(現・日野市、高幡不動尊から700mほど南)で生まれ、1810(文化7)年に6歳で没した藤蔵という名だったと語ったという。さらに藤蔵の死因は疱瘡で、家族の名前、家や村の様子など、藤蔵でしか知りえないことを語ったとされる転生話。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は江戸末期の「椿(珍)説集記」という説話集の写本をヒントに執筆したと考えられている。
2025年06月現在
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