酉の市(浅草鷲神社)とりのいち(あさくさおおとりじんじゃ)

毎年、11月の酉の日に各地の鷲(おおとり)、あるいは大鳥神社で行われる祭礼。鷲神社あるいは大鳥神社は日本武尊を祀り、武家には武運長久の神として、庶民には開運、商売繁盛の神として信仰されてきた。大阪府堺市の大鳥神社が本社とされるが、関東各地の鷲神社、大鳥神社との関係は定かではない。また、酉の市には由来についても諸説*があり、詳しいことは分かっていない。
 酉の市は、11月の初酉を一の酉、次を二の酉、三番目の酉のある年は三の酉*と称し、暦により、2回または3回開かれる。酉の市の日には各地の鷲神社あるいは大鳥神社では、縁起物として掻き込むことは金運を呼ぶということから飾り熊手が売られている。
 江戸時代においては、当初は「花又村(現・足立区花畑町)の鷲(現・大鷲)神社」が盛んで、「本酉」といわれ、千住(現・足立区千住)の「勝専寺(別称・赤門寺)」を「中の酉」、浅草千束(現・台東区千束三丁目)の長国寺を別当とする「鷲大明神」が「新酉」と称されていた。江戸時代後期になると、浅草千束の「鷲大明神」が栄え、江戸府内でもっとも知られる酉の市となった。明治に入り「鷲大明神」は神仏分離により長国寺より分離され「鷲神社」となった。現在も、この「鷲神社」の酉の市が全国的にも知られ、同社の参道や境内には縁起物などを売る露店、屋台が数多く所狭しと立ち並ぶことから、東京の晩秋の風物詩として各方面で取り上げられることも多い。
#

みどころ

江戸後期に編纂された「東都歳時記」によると、十一月の酉の日の条に「下谷田圃鷲大明神社、別當長國寺、世俗しん(新)鳥(酉)といふ。今日開帳あり、近來参詣群集する者夥し。當(当)社の賑へる事今天保壬辰(1832年)より凡(およそ)五十年以前よりの事ぞ」としている。浅草千束の鷲神社は18世紀後半くらいから、この酉の市の中心になったことが分かり、その賑わいは今も続いている。当日は、おかめの面や小判などをつけた大小さまざまの熊手や、八つ頭(芋)や黄金餅などの露店・屋台が数多く並び、景気のよい売り声が響き渡る。「1万両」などと威勢よく数え上げ、盛り上げてくれる。買い手の方も値切って買うのが通例だが、謝礼を払い、手締めをするのも慣わしだ。そんなやり取りも楽しみたい。1955(昭和30)年発行の「台東区史」では、其角の句「春を待つことの始めや酉の市」を紹介し、「ほのぼのとした江戸の香をわれわれの胸に伝えてくれるのである」と締めくくっているが、まさにそんな風情がいまも残る。ただ、鷲神社は決して広くないうえ、人出が多く、とくに夜市は混雑を極めるので訪れる時間帯などを工夫する必要がある。
#

補足情報

*諸説:「台東区史」によれば、「古老の談として往古この地に天日鷲命(あめのひしわしのみこと 麻植《おえ》の神)の祠があつて、日本武尊が東征のみぎり、神前に祈願し、凱旋の帰りに再び立ち寄つて、松の枝に熊手を掛けて戦勝を謝した。その日がたまたま十一月の酉の日だった」という鷲神社の社伝を紹介している。一方、長国寺の寺伝として「文永三(1266)年、宗祖に日蓮上人が、上総國長生郡茂原の小早川左衛門大夫の家に滞留したとき、その地に鷲山寺を建立した。そして祈願によつて霊夢を覚え、それを継いだ十二世の日乾上人は、寛永七(1630)年に江戸に来た…中略…今の地に鷲山寺の末寺として長国寺を建立した」とし、その際、北辰妙見菩薩も合祀したが、「その菩薩さまが鷲の背に乗つていられたので、爾来鷲大明神と号した」という説も紹介している。ただ、「台東区史」はいずれも確たる記録、文献がないともしている。また、足立区花畑の大鷲神社にも別の由来が存在している。
*三の酉:「三の酉の年は火事が多い」と言われるものの、その由縁は不詳で、空気が乾燥する寒い三の酉の時期に火事が多いからだとする説や「明暦の大火」の1657(明暦3)年は二の酉までしかなかったが「酉年」であったことから「酉」と関係づけられたのではなかなど諸説ある。