丸の内
JR東京駅と皇居外苑との間には、都市銀行はじめ大企業の多くが本社を置き、日本経済を動かすビジネスセンターとなっている。丸の内とは江戸城外郭内の「御曲輪内(おくるわうち)」のことで、江戸時代には江戸城の直近にあり、有力な諸大名の上屋敷が立ち並び、大名小路とも呼ばれていた。
明治維新以後は大部分が陸軍の練兵場と兵舎になったが、1889(明治22)年、明治政府は東京市区改正条例で、一帯を市街地にすることに決めた。入札の結果、1890(明治23)年に三菱*が買い受けた。三菱はイギリス人建築家ジョサイア・コンドル*を招き入れ、彼が推薦する曽禰達蔵を起用して都市計画を練り、英国風の赤レンガ造のオフィスビルを次々と建てた。三菱第一号館が1894(明治27)年、最後となる13号館が1911(明治44)年に竣工した。これが俗にいわれる「一丁倫敦(ロンドン)*」で、日本離れしたレンガ建築の街並みが形成されていったのである。
丸の内は1914(大正3)年に東京駅ができてから急速な発展を遂げ、1923(大正12)年に通称丸ビルこと丸の内ビルヂングが完成。竣工当時、丸ビルは東洋一の大きさを誇り、名の通り、角に丸みを帯びた柔らかみあるビルだった。1階をショッピングアーケードにしたことで、誰もが通り抜けができるビルとなった。
戦後は新丸ビル(新丸の内ビルヂング)の建設を契機にビルの建設・改築ラッシュが始まった。1996(平成8)年、公共と民間の協力・協調によって都心に相応しいまちづくりを進めることを目的に、「大手町・丸の内・有楽町地区(大丸有)まちづくり懇談会」が設立された。2000(平成12)年代以降は、「都市再生緊急整備地域」の指定に伴う再開発により超高層建築物の建設が相次いだ。2002(平成14)年に丸の内ビルディング(丸ビル)が、かつての面影を残しつつ新たにオープンし、2004(平成16)年には日本の旅行を牽引してきた日本国有鉄道(国鉄)本社ビルがあった場所に「丸の内オアゾ」が新しい姿をみせた。同年には明治生命館を保存しつつ周囲を再開発した明治安田生命ビル(丸の内 MY PLAZA)、さらに2007(平成19)年には新丸の内ビルディングと、新顔の誕生が続いた。
明治維新以後は大部分が陸軍の練兵場と兵舎になったが、1889(明治22)年、明治政府は東京市区改正条例で、一帯を市街地にすることに決めた。入札の結果、1890(明治23)年に三菱*が買い受けた。三菱はイギリス人建築家ジョサイア・コンドル*を招き入れ、彼が推薦する曽禰達蔵を起用して都市計画を練り、英国風の赤レンガ造のオフィスビルを次々と建てた。三菱第一号館が1894(明治27)年、最後となる13号館が1911(明治44)年に竣工した。これが俗にいわれる「一丁倫敦(ロンドン)*」で、日本離れしたレンガ建築の街並みが形成されていったのである。
丸の内は1914(大正3)年に東京駅ができてから急速な発展を遂げ、1923(大正12)年に通称丸ビルこと丸の内ビルヂングが完成。竣工当時、丸ビルは東洋一の大きさを誇り、名の通り、角に丸みを帯びた柔らかみあるビルだった。1階をショッピングアーケードにしたことで、誰もが通り抜けができるビルとなった。
戦後は新丸ビル(新丸の内ビルヂング)の建設を契機にビルの建設・改築ラッシュが始まった。1996(平成8)年、公共と民間の協力・協調によって都心に相応しいまちづくりを進めることを目的に、「大手町・丸の内・有楽町地区(大丸有)まちづくり懇談会」が設立された。2000(平成12)年代以降は、「都市再生緊急整備地域」の指定に伴う再開発により超高層建築物の建設が相次いだ。2002(平成14)年に丸の内ビルディング(丸ビル)が、かつての面影を残しつつ新たにオープンし、2004(平成16)年には日本の旅行を牽引してきた日本国有鉄道(国鉄)本社ビルがあった場所に「丸の内オアゾ」が新しい姿をみせた。同年には明治生命館を保存しつつ周囲を再開発した明治安田生命ビル(丸の内 MY PLAZA)、さらに2007(平成19)年には新丸の内ビルディングと、新顔の誕生が続いた。

みどころ
高層のビルが林立するようになったが、丸ビルや日本工業倶楽部会館に見るように、以前の親しみのある印象のファサード部分を残すビルも散見される。
これまで丸の内はオフィスビルが集中する、人けの少ない、寂しく、冷たい感じの地域だった。しかし、近年、丸の内仲通りで交通規制を実施し、椅子やベンチを配置したことで、食事やおしゃべりを楽しむ人たちが集まる場所となった。
これまで丸の内はオフィスビルが集中する、人けの少ない、寂しく、冷たい感じの地域だった。しかし、近年、丸の内仲通りで交通規制を実施し、椅子やベンチを配置したことで、食事やおしゃべりを楽しむ人たちが集まる場所となった。

補足情報
*三菱:土佐藩出身の岩崎彌太郎が設立した会社。海運業を基礎に、明治政府の政策に沿って発展を続け、炭鉱・保険・造船・銀行など各方面へ進出した。第一次世界大戦の好況でめざましく発展し、三菱財閥を確立。戦後の財閥解体で岩崎家から分離した。現在は商社・銀行・重工業など各方面に三菱系の企業が進出している。
*ジョサイア・コンドル:明治政府のお雇い外国人。日本銀行本店や鹿鳴館など数多くの建物を設計し、多くの日本人の建築家を育てた。
*一丁倫敦:三菱が建設にあたって、ロンドンの金融街「シティ」の一角にある「ロンバード・ストリート」を参考にし、13棟もの赤レンガ造りの建物が並ぶエリア。街区が1丁(108メートル)だったことから、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼んだ。
*ジョサイア・コンドル:明治政府のお雇い外国人。日本銀行本店や鹿鳴館など数多くの建物を設計し、多くの日本人の建築家を育てた。
*一丁倫敦:三菱が建設にあたって、ロンドンの金融街「シティ」の一角にある「ロンバード・ストリート」を参考にし、13棟もの赤レンガ造りの建物が並ぶエリア。街区が1丁(108メートル)だったことから、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼んだ。
関連リンク | 大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会(WEBサイト) |
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参考文献 |
大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会(WEBサイト) 「東京をつくった話」東建記念誌編纂委員会編 日本経済評論社 |
2025年06月現在
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