世田谷ボロ市
東急線上町駅から徒歩4分、世田谷代官屋敷*前の通りで行われるボロ市は1578(天正6)年の楽市*に始まる。当時の世田谷は相州街道など関東各地へ通じる交通の要所で、小田原城主北条氏政が世田谷の吉良氏と計って楽市を開いた。
毎月1の日と6の日に開かれていたが、江戸時代に世田谷城*破却、在方商業抑止にあってから、年1回の歳の市としての開催となった。1872(明治5)年に1月15日の初市が開設されて、今日では、12月と1月の15・16日に開催されている。
ボロ市の名は日清戦争以後、ワラジなどに用いるボロが売られるようになったことにちなむ。現在はボロには関係ないが、それでも飲食の屋台が多い祭りなどに比べれば、雑貨・衣料・古道具・植木などを売る店が目立つ。
毎月1の日と6の日に開かれていたが、江戸時代に世田谷城*破却、在方商業抑止にあってから、年1回の歳の市としての開催となった。1872(明治5)年に1月15日の初市が開設されて、今日では、12月と1月の15・16日に開催されている。
ボロ市の名は日清戦争以後、ワラジなどに用いるボロが売られるようになったことにちなむ。現在はボロには関係ないが、それでも飲食の屋台が多い祭りなどに比べれば、雑貨・衣料・古道具・植木などを売る店が目立つ。

みどころ
約500mの通りの両サイドに、600ほどの露店が並ぶ。2024年12月15・16日、2025年1月15・16日の4日間の来場者数は合計65万1千人であった。
東急世田谷線は、田園都市線に接続する三軒茶屋駅と、京王線に接続する下高井戸駅とを結ぶ。1925(大正14)年の開業と古く、約5.5kmに10駅があり、駅間距離が短く、利用しやすく、かつての都電のように区民の足となっている。路線が上町駅に向かって大きく湾曲しているのは、大場氏が土地を寄付して、路線を誘導したからである。沿線には、世田谷代官屋敷のほかに、世田谷城阯公園、松陰神社や豪徳寺など見どころが多い。
東急世田谷線は、田園都市線に接続する三軒茶屋駅と、京王線に接続する下高井戸駅とを結ぶ。1925(大正14)年の開業と古く、約5.5kmに10駅があり、駅間距離が短く、利用しやすく、かつての都電のように区民の足となっている。路線が上町駅に向かって大きく湾曲しているのは、大場氏が土地を寄付して、路線を誘導したからである。沿線には、世田谷代官屋敷のほかに、世田谷城阯公園、松陰神社や豪徳寺など見どころが多い。

補足情報
*世田谷代官屋敷:江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれる。現在の建物は、七代目当主六兵衛盛政が1737 (元文2)年頃に建て、式台が1753(宝暦3)年につけられた。表門も同年頃に建てられた。主屋と表門は、国の重要文化財に指定されている。
*楽市:戦国大名たちが自領の都市の繁栄をはかるために、それまで特権商人に独占されていた座や市の制度を停廃して、商人が自由に出入し、営業できる仕組みに改めたこと。また、その市場をいう。
*世田谷城阯公園:東急線宮の坂駅から徒歩5分。源義家の流れをくむ吉良兵部大輔治家から八代、240年にわたって栄えた吉良氏の居城。1590年(天正18年)、吉良氏朝の代に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれ、豊臣方に接収され廃城となる。豪徳寺付近に本丸があり、世田谷城阯公園付近まで城域が広がっていたと考えられている。数少ない遺構として、世田谷城阯公園内から北に向かって延びる空堀と土塁が現存する。
*楽市:戦国大名たちが自領の都市の繁栄をはかるために、それまで特権商人に独占されていた座や市の制度を停廃して、商人が自由に出入し、営業できる仕組みに改めたこと。また、その市場をいう。
*世田谷城阯公園:東急線宮の坂駅から徒歩5分。源義家の流れをくむ吉良兵部大輔治家から八代、240年にわたって栄えた吉良氏の居城。1590年(天正18年)、吉良氏朝の代に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれ、豊臣方に接収され廃城となる。豪徳寺付近に本丸があり、世田谷城阯公園付近まで城域が広がっていたと考えられている。数少ない遺構として、世田谷城阯公園内から北に向かって延びる空堀と土塁が現存する。
関連リンク | 世田谷区(WEBサイト) |
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参考文献 |
世田谷区(WEBサイト) 世田谷デジタルミュージアム(世田谷区)(WEBサイト) |
2025年06月現在
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