増上寺
都営地下鉄御成門駅、大門駅から約350m、JR浜松町駅から650mほどの、芝公園の中央部に位置する増上寺*1は、上野の寛永寺に次ぐ江戸の大寺である。1393(明徳4)年浄土宗8祖聖聡(しょうそう)上人の創建*2で、当初は麹町貝塚(現・千代田区紀尾井町)にあったが、1590(天正18)年徳川家康の江戸入府の際に徳川家の菩提寺となり、1598(慶長3)年に現在地*3に移された。以来、浄土宗関東十八檀林の主座を占め、寺領一万五百四十石、山内坊中寺院48宇を数え、寺運は隆盛を極めた。現在も境内は約5万m2と広く、本尊阿弥陀仏が鎮座する大殿(本堂)をはじめ・三解脱門(三門)*4・安国殿・光摂殿・経蔵・慈雲閣・鐘楼堂・増上寺会館などが建ち並び、大殿(本堂)裏手には徳川将軍家墓所*5・圓光大師堂などがある。安国殿の北側には西向聖観世音菩薩が祀られ、東西に延びる塀に沿って1975(昭和50)年頃より子育地蔵が徐々に建立され、現在は約1,300体が安置されている。大殿(本堂)地下1階には宝物展示室*6がある。
明治期の境内地の召し上げ、大火、戦災などにより多くのものを失ったため、現在、江戸期の往時を偲ぶ建造物は、三解脱門(三門)などしか遺されておらず、あとは芝公園内に徳川将軍家霊廟の旧台徳院霊廟惣門*7と有章院霊廟二天門*8などを遺すにとどまる。
明治期の境内地の召し上げ、大火、戦災などにより多くのものを失ったため、現在、江戸期の往時を偲ぶ建造物は、三解脱門(三門)などしか遺されておらず、あとは芝公園内に徳川将軍家霊廟の旧台徳院霊廟惣門*7と有章院霊廟二天門*8などを遺すにとどまる。

みどころ
増上寺の前を南北に走る日比谷通りを挟んだ東側から三解脱門※を見上げると、往時の寺運の隆盛が偲ばれ、雄渾さを感じる。この門をくぐると中央に本堂である大殿がどっしりと構え、その右手奥に東京タワーのすらりとした姿がみえる。大殿は1974(昭和49)年の造立で、鉄筋コンクリート製ではあるものの、その存在感に圧倒される。まずは、この大殿と東京タワーを背に記念写真を撮りたいところ。参拝のあとは宝物展示室で、かつて境内にあり、戦災で焼失した徳川将軍家霊廟の精密な模型を観覧したい。その後、大殿の裏手に回り、現在の徳川将軍家墓所(有料)にて、都心とは思えない深い緑に囲まれ6人の将軍の宝塔に手を合わせるのが良いだろう。また、大殿の北にある安国殿には、同堂の本尊である家康が尊崇したという阿弥陀如来像の秘仏「黒本尊」(開帳は1月・5月・9月の15日)が安置されているが、開帳の日が限られているので、前立の阿弥陀如来立像に参拝するのもよいだろう。
興味深いのは、境内の北側に子育地蔵1,300体ほどが、赤い前垂れを掛けて並んでおり、なかなかの圧巻。一見の価値はある。
※三解脱門は2032(令和14)年まで修復工事中。
興味深いのは、境内の北側に子育地蔵1,300体ほどが、赤い前垂れを掛けて並んでおり、なかなかの圧巻。一見の価値はある。
※三解脱門は2032(令和14)年まで修復工事中。

補足情報
*1 増上寺:山号は三縁山。山号と寺号の由来は、中国浄土教の僧侶善導の「観経疏定善義」によるとされる。山号の三縁とは「親縁(念仏を称えるによって仏と凡夫との間に親密な関係ができる)、近縁(念仏を称えるによって行者が仏を目前にすることができる)、増上縁(念仏を称えることによって罪を滅する働き)」を指し、寺号は、このなかの「増上縁」にちなんでいるという。
*2 聖聡(しょうそう)上人の創建:聖聡は、生没年は1366(貞治5)~1440(永享12)年で、下総国に力を持っていた千葉氏一族の出身。浄土宗の中興の祖ともいわれる。麹町貝塚にあった古義真言宗光明寺を浄土宗に改宗し、増上寺として建立した。ここを道場として布教活動、後進の育成などにあたった。
*3 菩提寺として現在地:国指定の重要文化財「江戸城造営関係資料」のなかにある「御本丸方位絵図」からは、風水の考えから江戸城の北東の鬼門(邪気が入ってくる)にあたる方角に神田明神と寛永寺を配置し、南西の裏鬼門(邪気が出ていく)にあたる方角に増上寺を移転して、江戸城を守らせたことが読み取れる。
*4 三解脱門(三門):かつての増上寺の偉観を偲ぶことができる唯一の古建築で、1622(元和8)年の建立。5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺、正面21m、側面約10m、高さ約21m、左右に繋塀・山廊を付けて、堂々たる構えを見せる。唐様、朱塗の三戸二重門で、楼上内部の須弥壇に釈迦三尊像・十六羅漢像・増上寺歴代上人像を安置している。
*5 徳川将軍家墓所:増上寺には、徳川将軍家6人の将軍と10人の正室・側室などの墓所があったが、1945年(昭和20年)の戦災により一部の門を遺し、ほぼ全焼。なかでも2代将軍秀忠の御霊屋として、1632(寛永9)年に3代将軍家光が建立した台徳院殿霊廟は境内南側に造営された壮大な建築群であったといわれ、日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟だったとされる。現在は墓所の中に石塔・青銅塔などの宝塔が立ち並ぶのみである。
*6 宝物展示室:常設展示の中心は、英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」。この模型は1910(明治43)年にロンドンで開催された日英博覧会に東京市(当時)が出品し、閉会後に英国王室に寄贈したもの。現在は英国王室から長期貸与されている。企画展示もある。入室有料。
*7 旧台徳院霊廟惣門(きゆうたいとくいんれいびようそうもん):もと徳川秀忠の霊廟の惣門であったが、霊屋は戦火で失われ、門だけが残されている。3間1戸、入母屋造、前後据破風付き。銅板葺、和様を基調とした端正な構成である。1632(寛永9)年の建立。現在は増上寺の南側の芝公園内にある。
*8 有章院霊廟二天門(ゆうしよういんれいびようにてんもん):東京プリンスホテル前にある7代将軍家継の霊廟の遺構で、建立は1717(享保2)年。3間1戸、切妻造、銅瓦葺の八脚門で、唐様、漆塗の荘重な趣があり、左右の1間に広目天・多聞天の2天を安置する。
*2 聖聡(しょうそう)上人の創建:聖聡は、生没年は1366(貞治5)~1440(永享12)年で、下総国に力を持っていた千葉氏一族の出身。浄土宗の中興の祖ともいわれる。麹町貝塚にあった古義真言宗光明寺を浄土宗に改宗し、増上寺として建立した。ここを道場として布教活動、後進の育成などにあたった。
*3 菩提寺として現在地:国指定の重要文化財「江戸城造営関係資料」のなかにある「御本丸方位絵図」からは、風水の考えから江戸城の北東の鬼門(邪気が入ってくる)にあたる方角に神田明神と寛永寺を配置し、南西の裏鬼門(邪気が出ていく)にあたる方角に増上寺を移転して、江戸城を守らせたことが読み取れる。
*4 三解脱門(三門):かつての増上寺の偉観を偲ぶことができる唯一の古建築で、1622(元和8)年の建立。5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺、正面21m、側面約10m、高さ約21m、左右に繋塀・山廊を付けて、堂々たる構えを見せる。唐様、朱塗の三戸二重門で、楼上内部の須弥壇に釈迦三尊像・十六羅漢像・増上寺歴代上人像を安置している。
*5 徳川将軍家墓所:増上寺には、徳川将軍家6人の将軍と10人の正室・側室などの墓所があったが、1945年(昭和20年)の戦災により一部の門を遺し、ほぼ全焼。なかでも2代将軍秀忠の御霊屋として、1632(寛永9)年に3代将軍家光が建立した台徳院殿霊廟は境内南側に造営された壮大な建築群であったといわれ、日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟だったとされる。現在は墓所の中に石塔・青銅塔などの宝塔が立ち並ぶのみである。
*6 宝物展示室:常設展示の中心は、英国ロイヤル・コレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」。この模型は1910(明治43)年にロンドンで開催された日英博覧会に東京市(当時)が出品し、閉会後に英国王室に寄贈したもの。現在は英国王室から長期貸与されている。企画展示もある。入室有料。
*7 旧台徳院霊廟惣門(きゆうたいとくいんれいびようそうもん):もと徳川秀忠の霊廟の惣門であったが、霊屋は戦火で失われ、門だけが残されている。3間1戸、入母屋造、前後据破風付き。銅板葺、和様を基調とした端正な構成である。1632(寛永9)年の建立。現在は増上寺の南側の芝公園内にある。
*8 有章院霊廟二天門(ゆうしよういんれいびようにてんもん):東京プリンスホテル前にある7代将軍家継の霊廟の遺構で、建立は1717(享保2)年。3間1戸、切妻造、銅瓦葺の八脚門で、唐様、漆塗の荘重な趣があり、左右の1間に広目天・多聞天の2天を安置する。
関連リンク | 大本山増上寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
大本山増上寺(WEBサイト) 「芝区誌 全」東京市芝区編 1938年 1384ページ WEB版 新纂浄土宗大辞典「三縁」「聖聡」(WEBサイト) 「御本丸方位絵図」東京都立図書館(WEBサイト) 増上寺パンフレット |
2025年06月現在
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